人間よ 君が忘れない限り
羽ばたくための翼は 常に君の背にあるのだ
誰もが、何か大切なことを忘れている、そんな気がする夏だった。
「あれぇ、ヒメ?」
「千鶴ちゃん!」
花火大会の見物客でごった返す大通り、マイスゥイート・ヒメの姿を、人の群れの中から見つけ出したのは、きっと愛の力ね。そうに違いないわ。
「どうしたの? 一人?」
「ううん、たつきちゃんと一緒だったんだけど…あれ?」
たこ焼き綿あめカキ氷、クレープにお好み焼きを両手に抱えて、きょろきょろと周囲を見回すヒメの姿の、あまりの愛らしさに、アタシは既にノックダウン寸前よ!
あぁ…このままさらって逃げてしまいたい…。
「あのね、たつきちゃんは、女装した小川直也に闘いを挑まれて、白いマットのジャングルに向かったようなの」
………。
「どうしよう、やっぱりセコンドにつくべきかなぁ?」
…愛らしさだけじゃなく、飛ばしっぷりも相変わらずだわね。
「とりあえず、綿あめ振り回して話すと危ないから、ちょっと人ゴミ抜けようか?」
「うん」
連れ出し成功!
下界のお祭り気分をよそに、神社の本殿裏には、全くひと気がなかったりして。
遠くで花火の音だけが響いて、この完璧なシチュエーションはどうかしら!?
成人向けPCゲームとかにありそうな舞台設定だわ。
ここで自らの欲望に歯止めをかけるのは、人間として間違っている行為じゃなくて?
「千鶴ちゃんも食べる?」
と、口の周りをソースと綿あめでベタベタにしながら、ヒメがカキ氷を差し出して微笑む。
「うぅん、私は後で、ヒメを美味しくいただくわ」
つられて笑顔で応えてみたりして。
「たつきちゃん、黒崎くん達と一緒だといいんだけど」
ちょっぴり心配そうな表情が、また非常に嗜虐心をそそると言うか何と言うか。
お願いだから、黒崎や石田の前ではそんな顔しないでね。男はみんなオオカミよっ。
夏は露出度も上がって、ヒメのその豊満な肢体が男達の前にさらされてると思うと、何かもう、勘弁ならーん! って感じだわ。
「これは一刻も早く、私のものにしなくては!」
本匠千鶴、この夏こそヒメを落としてみせるっ。
「……千鶴ちゃん…?」
…はっ。
興奮のあまり、ついつい妄想を口にしてしまっていたようね。
お目付け役のたつきがいないせいで、すっかり奔放になっている私のココロ。えへ。
「ヒメは、この夏はどうするの?」
「あ、うん。おばさんの家に行くことになってるの」
―――嘘が下手ね。ヒメ。
お兄さんが亡くなって、天涯孤独なヒメが、おばさんの家に行くという。
誰があなたに、そんな言葉を言わせるの?
「ヒメ、それたつきは知ってるの?」
「うん。たつきちゃんにも言ってあるよ」
「ふぅん…」
まぁ、たつきが何も言わないなら、私がつっこむべきことでもないか。
だけど。
最近のヒメは、よく笑う。
今までは、ぼんやりしている時間のほうが多かったような、天然巨乳美少女だったけど、この頃のヒメは、グラビアアイドルみたいだ。
カメラの前で、眩しい笑顔を振り撒いて。
それが嘘だとは言わないけれど。
例えば黒埼なら、ヒメの別の表情を見ることができるのかしら。
「見たいなぁ」
「え?」
「誰も知らないヒメの顔。て言うか痴態?」
…しかし、つっこみが入らないと、私の言葉はどこまでも滑るわね。
開放感を覚える反面、本当に突っ走っていいものか、少々危機感も感じるわ。
ま、ほんの少しだけど。
そんなことを考えながら、ぼんやりヒメを眺めていると、ヒメは意を決したように口を開いた。
「あのね、黒崎くんは、死神なの」
「…はァ?」
人差し指を立てて、早口にまくし立てる。
「それで、悪いオバケをやっつけちゃうの。茶渡くんは腕がおっきくなるし、石田くんは『くいんしー』で、弓でバシューって戦うのね。あたしは『しゅんしゅんりっか』ってので、小人さんがいっぱい出てくるのっ」
「………」
「あたしとチャドくんは、夜一さんとこで特訓したの。夜一さんは、ネコなんだけどお話できて、あたしたちの先生なのね。何で特訓したかって言うと、みんなで『そうるそさえてぃ』ってところに行くためなの」
「……えーと、ヒメ」
「はいっ」
「最近何の映画観た?」
「『死霊のフォークダンス』と、『キョンシーvsロッキー』二本立て!」
「なるほどね」
暑くなると、普通の人でも壊れてくるもんね…。
この飛びっぷりもヒメの魅力だもの、仕方ないか。
「それでね、今までは『ほろう』って言うオバケと戦ってたんだけど、今度は死神の世界に行くから、死神さん達と戦うことになるの」
「…っていう夢を見たのね?」
一瞬、言ってはいけないことを、言った気がした。
ヒメが、並んで座る私に、そっと寄りかかる。
「………うん。夢なの」
私の肩の上で、ヒメの髪が柔らかく揺れる。
「全部悪い夢なの」
栗色の髪に隠れて、表情が読めなくなる。
しばらく沈黙が続いた後、ヒメが私の手を握った。
わお。何て大胆な。
これってもしかしてお誘い? てか、私って馬鹿?
指先から流れ込む体温。遠くで続く花火の音。
「でもさ、黒崎がいるんでしょ、その夢。そしたらヒメ的にはいい夢じゃん」
途端、弾かれたように顔を上げるヒメ。
「チャドはともかく、石田が登場するのが微妙にムカツクけど」
「そっか! そうだよね千鶴ちゃん」
向日葵の花のような笑み。
「黒崎くんが一緒なら、絶対大丈夫だよね!」
ちくり、と胸の奥に痛みを残して。
「ありがとう。千鶴ちゃんって頭いいねぇ」
ヒメが立ち上がって、夜空に向かって手を伸ばす。
黒崎の名前一つで、彼女の世界は変わる。全くもって妬けるなぁ。
ヒメは私に背を向けて、虚空に手を差し伸べたまま、その動きを止めている。
「…?」
不審に思って窺うと、小さな声で「べんとらべんとら…」と呟いていた。UFO呼んでるし!
私のことは放置ですか!?
えーえー。「ヒメってば積極的☆」とか妄想した私が馬鹿でしたよ。
いっそ黒崎の名前なんか出さずに、あのまま押し倒しちゃえばよかったなぁ。
くそぅ! 千載一遇のチャンスを…!
後悔の波に襲われる私をよそに、ヒメはいまだ宇宙と交信中。
私のこと 振り向いてよ ヒメ。
静かに立ち上がって、歩を進める。
薄暗がりの中、空に向かって真っ直ぐに伸ばされた、白い腕。
「……ヒメ」
腕を下ろす暇も与えず、肩を掴んで強引に振り向かせる。
「千鶴ちゃ…っ!」
願わくばこれが、ヒメにとって初めてのキスでありますように。
あなたの記憶に残りたいの。
これから先、黒崎や、他の男と触れ合うたびに。
私のことを思い出して。
他の誰かを好きになってもいい。
だけどどうか忘れないで。
ヒメが誰かとキスする時に、私の顔が脳裏をよぎりますように。
この夏は、あまりにも多くの記憶を、失ったような気がしてならないのよ。
唇を離すと、ヒメは大きく呼吸を継いだ。
……いけない。ついばむようなキスにするつもりが、ついつい濃厚にヒメの唇を貪ってしまったわ。
「あは。ごちそうさまっ」
無理に明るい声で言う。
ヒメが何かを考え込むように黙っているので、沈黙に耐えられずに言葉を続ける。
「あんまりヒメが無防備なもんだから、耐え切れずに襲っちゃったわ! ねぇんヒメ、私とひと夏の思い出作ろうよぅ」
お願い。何か言って。
罵声でも、泣き言でも構わないから。
「せめて、夏が終わったら、キスより先に進もうね! 大丈夫、優しくするからっ」
震えるな声。零れるな涙。
ヒメがぼんやりと、指先で唇に触れた。
「……リンゴ飴」
「―――え?」
「千鶴ちゃん、リンゴ飴の味がした! あたしまだ、リンゴ飴食べてない!」
そのまま、私の手をとって、夜店の方向を指差す。
「買いに行こう! 早くしないと花火大会終わっちゃう」
笑顔で。
一点の曇りもない笑顔で言う。
あぁ。だから私は、ヒメが好きなんだなぁ。
手を引かれて走りながら、私の頬にも笑みが浮かぶ。
「よぉし、千鶴さんがリンゴ飴奢っちゃる!」
「本当!? わーい、千鶴ちゃん大好きっ」
風になびく淡い色の髪。
ヒメの後ろ姿を見ながら、私は小さく呟いた。
「ありがとう。―――私も好きよ、ヒメ」
あーあー、なんつーか、やっちまった感が漂います…。
千×雨三部作の二作目なんですが…雨竜出てこないし!
しかも、これが一番最初に書き上がってるし。
タイトルと内容がリンクしないのは、もはや諦めるしかないということで。
反省しきり。
言わずもがなですが、コミックス8巻あたりの、花火大会の時のお話です。
2003/11
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