瞼の裏側を、小さな蟲が喰い破る。
「それは盲虫と言ってね。瞼しか食べないから安心しなさい」
名前通りに盲滅法、蟲は瞼を喰い進む。
そして世界中の人の瞼を喰い尽くしたら、
この蟲は何処へ行くんだろう。
何処へ行くんだろう。
私がもっと強ければ、何も失わずに済んだものを。
油断した。
虚を前にして、マユリは密かに唇を噛んだ。
敵の予想外の強さに、ネムを連れて来たことを後悔する。
守らなければ。この娘だけは。
生命に代えても。
死神になって随分経つ。
技術開発局に参入を許され、十二番隊の副官補佐の任も受けた。
虚襲撃の報せを聞き、功に逸ってネムと二人で隊から離れた。
自らの慢心が招いた窮地だ。
肉親の情は、心強い後ろ盾にもなるが、時として我が身を縛る枷となる。
しゃがみこんだネムの姿にそれを痛感する。
虚の攻撃を避けきれず、娘が足を痛めた。
庇えなかった自分が口惜しい。
遠くで隊員の声がする。
時間さえ稼げば、何とかなる。
虚の気を惹いて、奴が傷ついたネムを狙わないように。
大仰な仕種で斬魄刀を構え直す。
虚の眼が僅かに見開かれ、マユリを追う。
そうだ。お前の相手は、この私だ。
ゆっくり歩を進める。
ネムから距離を取っていることを気付かれないように。
「―――涅さん?」
通りの向こうから響く、誰何の声。
今だ。
獲物を振り上げ、一気に間合いを詰める。
と、目の前の虚が、不意に消えた。
―――疾い!
咄嗟に身を庇うように刀を引き寄せるマユリの背後で、高い悲鳴が響いた。
「ネムっ!?」
虚が、予期せぬ疾さでネムに近付き、その身を貫いたのだ。
悲鳴は高く、細く尾を引いて―――消えた。
ネムが。
ネムの魄動が。
悲鳴と共に大気に溶けて消える。
「ああぁあぁああぁぁッ!!!」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ!
最愛の娘を。我が身を賭しても護るべき存在を。
失う筈がない。
そんな事が、許される筈はないのに。
「――――――!!」
マユリは、下腹に灼けつく痛みを感じて膝をついた。
自らの吐いた血で、眼前が朱く染まる。
そしてマユリは見た。虚の腕が背後から、自分の腹部を突き破るのを。
「涅さん―――涅さんッ!?」
遠のく意識の中微かに聴こえたのは、駆け寄る隊員の足音と、その名を呼ぶ声。
「状態は!?」
「全身に裂傷、下顎欠損。腹部の傷が貫通していて、生殖機能は―――絶望的
です」
沈痛な声。
マユリはぼんやりと、その声の持つ意味を反芻した。
―――ネムは二度と戻らない、ということか。
「局長は何やってんだ!」
「それが……昨日から姿が見えなくて」
「またかよ? あの人お気に入りの『マユリさん』が大変な目に遭ってる時に、一体
どこ行ってんだ」
目を開けて、眩い光に息を呑む。
聴こえる声は、四番隊士のものではなく、馴染みのある技術開発局員のもの。
最早『治療』で済む傷ではないということだ。
眩しさに眼を慣らし、手近の局員の名を呼ぶ。
「涅さん! 気が付きましたか」
声音に安堵の色が混ざる。
「虚は……どうした?」
「申し訳ありません、取り逃がしたそうです」
ネムを殺した虚がまだ―――生きている。
仕留めなくては。
私のこの手で。
身を起こそうとして愕然とする。
指の一本さえも、自分の望む通りに動かすことができない。
「あ、駄目ですよ。酷い傷なんですから、動かないでください」
言われなくとも動けないのだ。
こんな―――こんなことでは、ネムの仇など討てる筈もない。
言い知れぬ焦燥に臍を噛む。
強くなりたい。
絶望に視界が狭まる。
私が弱いから、最愛の娘を失ったのだ。
私が弱いから、今こうして横たわることしかできないのだ。
憎い相手を追うこともできずに。
強くなりたい。
誰にも負けたくない。
もう大切なものを失いたくない。
傍らに立つ男を呼び止める。
顔を寄せた男の耳元に囁くと、相手は息を呑んで顔色を変えた。
「そんな!! 無茶ですよ。あれはまだ治療には使えません!」
「使えるかどうかは、試してみなければ判らないだろう?」
「あれは研究途中です。人体にどんな影響があるか、全く判ってないんですよ!?」
「だから! 私が被験体になると言っている!!」
弱い自分のまま、ただ漫然と回復を待つくらいなら。
一縷の望みでも、賭けてみる価値はある。
例え、この選択の先に待つものが、永劫の闇だとしても。
「よぉ。調子はどうだ?」
「上々だよ」
五月蝿い奴が来たな、と思いつつ、マユリは男を振り返った。
マユリの部屋に、断りもなく入って来られるのは、十三隊士の中でも、彼だけだ。
ネムのいない、今となっては。
「もう傷はいいのか?」
見れば判るだろう、と答えると、男は無遠慮にマユリを眺めた。
「悪趣味な仮面だな」
「放っておけよ」
男の視線から逃れようとするかのように身を翻すマユリの腕を、彼が掴む。
「俺ァ、見たことあるぜ。その仮面」
マユリの眼が、僅かに見開かれる。
「もう何年も前だ。俺とお前の隊は、組んで同じ敵を追っていた」
男の言葉に、マユリも頷く。
その敵の前に、何人もの隊士が死んだ。
強大な力を持った―――『大虚』
「俺たちはボロボロになりながら奴を追い詰めた。山程の犠牲を出して、少しずつ
奴の力を削って、ようやく止めを刺そうって時に現れたのが―――開発局の連中だ」
男の瞳に、当時の憤りを思い出したかのような、昏い光が満ちる。
「あいつらは、傷ついた俺たちに有無を言わせず、大虚を攫って行きやがった」
「だが、その功を認められて、私もお前も席官に昇進したのだろう?」
マユリの言葉に、男が舌打ちする。
自らの獲物を奪われたことが、余程悔しいのだろう。
「まぁいい。それよりも俺ァ、妙な噂を聞いたぜ」
マユリの腕を引き寄せる。
「技術開発局の連中が、研究のために虚を飼ってる―――ってな」
男の強い視線に、マユリは思わず眼を逸らした。
「それが……どうした。単なる噂だ」
「そうかも知れねェな。ただ、今のお前の仮面が、あの時の大虚によく似てる、って
だけのことさ」
だから、この男は苦手だ。
余計なところで、妙に勘がいい。
男の言葉を嗤って否定しようと口を開きかけたマユリの喉が、乾いた音を立てる。
「―――っ」
苛立った局長の声が甦る。
『全く! 何だってそんなムチャなことするんスか』
五月蝿い。肝心な時に居なかったのはお前だろう。
『普通は義骸に入って回復を待つもんでしょが。それを急激に治したりして』
はい、と小瓶を手渡す。
『細胞が定着するまで、皮下注射してくださいね。アレはまだ副作用だってはっきり
してないんスから、絶対に薬だけは切らさないこと』
ラベルに凶悪な髑髏マークの印された半透明の小瓶。
『でないとアナタ―――人じゃなくなりますよ』
皮膚の下で脈打つ鼓動。
震える指先で、そっと袂の小瓶と注射器を確かめる。
だが―――この男の前で薬を射つのには少々問題がある。
「―――帰れ」
乾いた喉から、無理矢理に言葉を押し出す。
「何だお前―――おい、どうした?」
マユリの様子に、男が不審気な声をあげる。
「いいから……出て行ってくれないか」
震えが大きくなる。
早くしないと、自らに針を刺すこともできなくなる。
「出て行け!!」
男を押しやって背を向け、マユリは注射器を取り出した。
爪を滑らせながら瓶の蓋を開ける。
針を自らの腕に押し当て、無色の液体を一気に流し込む。
安堵の息をついたマユリを、次の瞬間激痛が襲った。
「が……っあ!」
何度味わっても慣れることのできない痛みに膝をつく。
『痛みますか?』
間延びした声で尋ねる局長を、気力を振り絞って睨みつける。
薬の浸透と共に訪れた、耐え切れぬ程の全身の痛み。
『……っく、死……ぬ…』
このままこの痛みが続けば、本当に死に至るかも知れない。
『まさか。死にゃしませんよ』
そう言って、彼は薄く笑う。
『ただ―――死ぬ程痛いだけです』
全身の細胞が分裂し、再び融合する。
痛みだけが、この身を現世に繋ぎ留める。
『痛みがあることに感謝した方がいいですよ』
それが唯一の、人である証。
いっそこの身を、狂気に融かしてしまおうか。
いっそこのまま――――――
「涅! ―――おい、涅!!」
拡散しそうな意識を抱き締める、力強い腕の感触。
床に爪を立てたまま、マユリはぼんやりと腕の主を見上げた。
「何やってんだよお前!?」
部屋を去りかけた男が、マユリの狂態に驚いて戻ってきたのだ。
「出……て行けと……言っただろう……」
「莫迦野郎。自分で立ち上がれもしない奴が何言ってやがる」
「大丈夫だ……痛みはじきに治まる……」
男の腕に躯を預けて溜息を吐く。
言葉の通り、薬によってもたらされた激痛は、訪れた時と同様、急速に去りつつ
あった。
指先に血液が戻ってくる。
大丈夫。まだ人間だ。
重ねた腕から流れ込む体温に、生きていることを実感する。
話してしまおうか、この男に全てを。
彼は嗤うだろうか。
それとも怒るだろうか。
マユリが口を開きかけた時、部屋の扉が乱暴に叩かれた。
「涅さん! あいつです、虚です!!」
追いつめて、傷つけて。嬲るように。
楽に殺しはしない。
虚の恐怖と哀願の視線が、肌に心地好い。
マユリはそっと指先で、斬魄刀の刃をなぞった。
「まだだよ」
四肢を、翼を。殺さぬ程度に傷つけて身体の自由を奪う。
私の痛みには、まだ及ばない。
「こんなもの、苦痛のうちに入らないだろう?」
傷口を抉るように刃を滑らせる。
もっと。
もっと悲鳴を聴かせろ。
懇願の声を響かせろ。
お前が奪った生命の重みを、思い知るがいい。
「…………ドウシテ」
癇に障る声。
「ソノ姿……オレタチの仲間なのニ、何故オレを殺ス?」
瞬間、全身の血液が沸騰するのを感じた。
「黙れ―――黙れ黙れっ!!」
何度も、何度も。
切っ先を振り上げては虚の仮面に叩きつける。
マユリが我に返った時には、既に地獄の門が開いていた。
巨大な腕が虚を掴み、マユリの眼前から奪い去る。
「待て! そいつは私の―――!」
指先が空を掻く。
虚の悲鳴と共に、扉がゆっくりと閉ざされた。
「く……っ!」
尸魂界に送られるなら、見つけ出して嬲ってやるものを。
『―――何故殺ス?』
『オ前ハ……オレたちの仲間なのニ』
違う。
私は人間だ。
胸元に手を置き、空洞がないことを確かめる。
大丈夫、まだ人間だ。
少なくとも―――今は、まだ。
相変わらず断りもなく部屋を訪れる男に、マユリは珍しく酒を勧めた。
「どういう風の吹き回しだ?」
「隊長就任祝いだヨ」
杯を手渡しながら言う。
「隊長に昇進したのは、てめェも同じだろ」
仮面の奥で、マユリが目を細めた。
「私にとっては、十二番隊隊長の地位より、二代目技術開発局長の方が重要だよ」
これでようやく、好きな研究に没頭できるというものだ。
「その仮面も、すっかり見慣れちまったな」
薄く笑んだマユリを一瞥して、男が杯を呷る。
「だが、最近のお前の評判は、芳しくねぇぞ」
復讐の機会を奪われてから数年。
涅マユリの周辺には、様々な噂が飛び交っていた。
「斬魄刀が異形の姿に変わっただの、虚を生きたまま喰らっているだの、妙な噂
ばっかり流れてきやがる」
「言いたい奴には、言わせておけばいいさ」
杯の縁を指でなぞってうそぶくと、男は大仰に肩を竦めた。
「俺もお前には一つ、訊きたいことがある」
その言葉に、マユリはゆっくりと視線を杯から男へと移した。
仮面の下の瞳を、僅かに細める。
「お前、近頃毎日研究所に籠もっているようだが、一体何を作ってやがるんだ?」
つい、とマユリが笑んだまま男に顔を寄せた。
細められた瞳の奥に、戸惑ったような表情の男が揺れる。
「ネムをね、造っているんだヨ」
囁くように。
歌うように。
「―――!?」
「もうすぐだヨ。ネムはもうすぐ戻ってくる」
白い壁、白い光。
研究室に広がる純白の闇。
実験台の上に横たわる、誰よりも白い肢体。
「ネム」
呼びかけに応えるように、睫毛が揺れる。
そして瞳は開かれる。
かつて一度は失われた光が、再びその瞳に宿る。
「起きなさい、ネム」
額に手をついて、少女がゆっくりと身を起こす。
眩しさに目を細めて周囲を見渡す。
まるで、生きている人間そのままに。
そう。彼女は生きているのだ。
「―――あなた、は?」
生きて帰ってきたのだ。私の許に。
「私は、涅マユリ」
「マユリ……様」
瞬きを繰り返すたびに、白い頬に睫毛の翳が落ちる。
「お前は、私の娘」
「マユリ様の、娘」
「お前は、ネムだよ」
違う。
「私は、ネム」
違う。お前はネムじゃない。
ネムの瞳、ネムの声、ネムの髪。
「私は、マユリ様の娘」
ネムの指、ネムの首、ネムの唇。
「私は、涅ネム」
ネムの肌、ネムの骨、ネムの心臓。
全ては、造り物なのに。
違う。本物だ。
彼女は戻って来たのだ。私の許に。
今度こそ、護らなくては。
誰も彼女を、傷つけないように。
護らなくては。
いつか私が、彼女を壊してしまわないように。
ネムの姿をした、この人形を。
壊してしまわないように。
いつか私は、この娘を殺すだろう。
ネムの姿の偽物を、この手で壊すだろう。
暗鬱な予感に、肌が粟立つ。
護らなくては。
私の大切な、大切な娘。
大切な、大切なネムの偽物。
偽りに満ちた、この人形を。
「時々、考えるんだよ」
いつになく沈んだマユリの声に、男は僅かに眉を寄せた。
「何故私のココには、空洞がないんだろう、ってね」
そう言って、胸に手を置く。
呼吸に合わせて、緩やかに上下する胸。
「そりゃぁ……」
言いかけて男が口を噤む。
「そりゃぁ、お前が生きてるからだろう」
声に滲んだ不安を押し殺すように、男は一息に言い放った。
その言葉に、マユリが口元を笑みの形に歪める。
生きているとは、果たしてどのような状態のことなのか。
ネムは造られてなお、生きているのか。
近頃はそんなことすら、判らなくなってきた。
「最近はね、痛みが怖くないんだヨ」
「そんなもの、俺だって怖かねェぞ」
男の口元にも、笑みが浮かぶ。
「お前は、強いネ」
私はね、お前のように強くはないんだよ。
続く言葉は、口には出さずに。
私が弱いから、最愛の娘を失ったのだ。
そして今もまだ、大切なものを失い続けている。
「お前だって、強くなったじゃねェか」
何たって隊長サマだろ? と、笑みのまま男が言う。
彼はこのまま、大切なものを失う弱さを知らずに生きるのだろうか。
あの子供を奪われたら、彼も痛みを恐れるようになるのだろうか。
「何、笑ってやがる」
男の表情が眩しいかのように、マユリが目を細める。
「何でもないよ。くだらないことを考えていただけだ」
本当に、愚にもつかないくだらないことだ。
もしも、そんなことになったら。
彼があの子供を失う前に、私が彼を失うだろう。
誰よりも強くて迷いのない、この友人を。
「なぁ、あれから何十年経った?」
「あぁん?」
「私とお前が一緒に大虚を追った日から、もうどれだけになる?」
「さぁな。百年くれぇは経ってんじゃねェか」
あの頃は確かに、二人同じ道を歩いていたのに。
あの日の大虚に、もう何十年も、私は生きながら喰われているのだ。
手足の先から蝕まれ、私は緩やかに狂っていく。
せめてまだ、人であるうちに。
男の指先に触れる。
彼は驚いたように目を上げたが、その手を振り払おうとはしない。
「頼みがある」
もしも、いつか。
「いつか私が、人ではなくなったら」
男の問いかけを拒む、強い瞳で。
「お前が私を、殺してくれないか」
沈黙が棘のように、マユリを取り囲む。
やがて男は、口を鎖したまま、ゆっくりと頷いた。
ずっと、思っていたのかも知れない。
私の息の根を止めるのは、この男だと。
男の瞳が、真っ直ぐにマユリを映す。
「それなら、俺が殺すまで、絶対に死ぬんじゃねぇぞ」
瞳の奥のマユリが、笑みを深める。
これで、もう誰も失わずに済む。
ネムも、旧い友人も。
冗談めいた約束の意味を、この男はいつか知るのだろうか。
けれど、これだけは確信できる。
彼は必ず、約束を果たすだろう。
その時まで、私は人間でいられるのだ。
既にまゆりん人じゃないだろうとか、
そもそも死神は人間じゃないだろうとかのツッコミは、
なしの方向で! ごめんなさい!
なんだかやたら長くなりましたマユリ小説。
一般の方に、まゆりんに萌えてもらおう、というコンセプトで
書いた話なのですが、萌えられなくても仕方がないって言うか、
これが限界だよ・゚・(ノД`)ノ・゚・
萌えがコンセプトのせいで、こんなまゆりんになってますが、
私の中のまゆりんは、実際には普通に変態です。
むしろこんな過去などいらぬ。
今回の前文は、十年くらい前のノートの落書きから引用しました。
タイトルは「めくらむし」
何を考えていたんだ、当時の私……。
2004/05
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