雨音の匣
曲は終わった。
鍵盤から弾き出された最後の音が、雨の音とぶつかり合って消えてゆく。儀式のような静寂。
蓮はいつものように俯いたまま、呼吸の響きを確かめている。
こんなに確かに、繊細な音を紡ぎ出す彼の目が見えないなんて、誰が思うだろう。
私達が黙っていると、眠るように蹲っていたチェリオが身を起こした。
チェリオは、彼の瞳。彼女と出逢ってから―――蓮がチェリオと暮らすようになってから、
もう3年も経つのに、彼女はまだ私には馴れてくれない。盲導犬って、もともとそういうもの
なんだろうけど、まるで蓮の妹に嫌われてるみたいな、複雑な気分だ。
「お疲れさま」
言ってから、自分の間抜けさに気がついた。いつもいつも、蓮の演奏の後には言葉を失う。
言葉よりも確実な音を見せつけられた後では、何もかもが嘘になるから。
「じゃあ、また水曜日に」
「うん、待ってる」
地下室の扉を開けて階段を登る蓮の後ろ姿を見ていると、不意に泣きそうになった。
夏の日のキスみたいな、気怠い甘さ。
蓮と初めて逢ったのは、小学生の頃。父の転勤で引越しをして、大嫌いだったピアノ
教室をやめられると、ほっとしたのもつかの間、母が新しい教室を申し込んでいたことを
知って、失望したあの日。
新しい先生は、やたらに声が大きくて、愛想が良くて、たかが生徒が一人増えたくらいで
大喜びして、私をその場にいた皆に紹介した。
蓮はその中の一人だった。小学生のくせにサングラスなんかかけて、変な奴だと思って
たけど、彼の目は、その頃すでに殆ど見えなかったのだ。
練習の順番を待っている間、初めて蓮のピアノを聴いたその日の夜、私は血液の
沸騰点を知った。
子供部屋のベッドの中で、幾度寝返りをうっても、彼のピアノが耳について離れなかった。
結局一睡もできず、次の朝、私は吐いた。涙と一緒に胃の中の物を全部吐いて、新しい
学校を1週間も欠席することになった、小学校4年の夏。
その日からだ。私が自ら進んでピアノを弾くようになったのは。
来る日も来る日も、私は鍵盤の前に座って、彼の音を探し続けた。
週に一度のピアノ教室に、自分のレッスンの一時間も前に出かけて行っては、
蓮のピアノを聴いていた。
彼の音は、1週間毎に進歩していって、私にはまるで捕まえられなかった。
しばらくして、ピアノ教室で友達になった女の子に、蓮のことを聞いた。
目の見えない子供達の小学校に、毎朝電車で通っていること、ピアノ教室のすぐ近くに
住んでいること。それから―――彼の家にはピアノがなくて、毎日レッスンの無い時間に、
教室のピアノで練習させてもらっていること。
それを聞いた日の夜、私は家を抜け出してピアノ教室へ向かった。
夜は誰のレッスンも無かったから、蓮が練習しているかも知れないと思ったのだ。
教室の窓の外に座ると、中から微かにピアノの音が聴こえてきた。
蓮の音だった。
誰もたどりつけない、彼だけの音がそこにあった。
練習曲とは違う、知らない曲を、彼はずっと引き続けていた。
地下室のピアノ。大嫌いだった地下へ続く階段。湿った空気、白い照明。
ピアノは、まだあんまり好きじゃなかった。でも蓮の音を探せるのは、ここだけだったから。
そう。新しい家には地下室があった。母が用意した、完全防音の、ピアノのための部屋。
そこで私は、蓮の弾いていた曲を探していた。そして見つかったのは、同じ曲だったけど、
違う音。
きっと、私がピアノを嫌いなように、ピアノも私が嫌いなのだ。投げやりにそんなことを考え
ながらも、私は地下室から動けなかった。
最初に欲しかったのは、蓮ではなかった。
ただ蓮の持つ、彼の音だけを、私は求め続けていた。
もう一つの彼の音、彼の言葉を聴くまでは。
いつものように、練習の一時間前にやって来たピアノ教室に、蓮の姿は無かった。
それどころか、先生の姿も無く、ただ蓋を開けたピアノだけが残されていた。
それは、一つのチャンスだった。
蓮の弾いていた曲を、蓮の練習していたピアノで弾けば、彼の音が見つかるかも知れない。
私は静かに椅子を引いて、鍵盤に指を滑らせた。
先生の家の古いピアノ。何人もの人が、このピアノの前に座って、自分だけの音を奏でて
きたのだ。
―――けれど、どれだけ同じ旋律を繰り返しても、蓮の音は蓮だけのもので、私の指先
から流れ出しては来なかった。そのことを痛感して泣きそうになった時、 私はもう一つの
音を聴いた。
もう一つの特別な音―――彼の声を。
「誰?」
突然に耳に流れ込んだ、ヴェルヴェットの洪水。
驚いて指を止め振り返ると、扉に寄りかかるようにして、蓮が立っていた。
「誰かいるんでしょう?」
その言葉に、彼の目のことを思い出した。こんなに近くにいても、彼には私が見えないのだ。
「あの――――ごめんなさい。誰もいなかったもんだから」
慌てて椅子から降りると、蓮は微笑を浮かべてみせた。
「良かった。サティの亡霊かと思ったよ。―――先月入った人だね」
ゆっくりと歩み寄り、鍵盤に指を這わせる。
「君が弾いてたの、サティの’ジムノペディ’でしょ?」
その瞬間、全ての鍵盤が彼のために歌い始めた。
同じ曲の筈なのに、どうしてこんなに違うんだろう。椅子の背もたれにつかまって、強烈な
眩暈に耐えながら思った。
その音は幼くて、決して完璧ではないのに、私を捕らえて離さない。
蓮の指が鍵盤から離れても、私はその場を動けなかった。
「僕はね、サティに取り憑かれてるんだよ」
柔らかな肌触りの言葉達が、鼓膜を揺らす。
その時、解った。私は蓮の音に取り憑かれたのだ。
雨が止まない。
地下室の扉越しに、微かに聴こえてくる響き。外は嵐。
去年の夏、大学受験を理由に私がピアノ教室をやめてから、連はこの地下室に来るように
なった。
弾かないで放置しておくと、すぐに機嫌を損ねるわがままなピアノのためにも、生徒数が
増えて、空き時間の練習が難しくなってきた蓮のためにも、それが最上の方法に思えたのだ。
本当は、ただ家で、この地下室で、蓮の音を聴きたかっただけなのだけれども。
久しぶりに、鍵盤に触れてみた。冷たく硬質な手触り。
結局この世界中の人に愛されている楽器と、和解することはできなかったな、と考えながら、
蓮の練習していた曲をなぞってみる。最近ずっと、蓮はこの曲ばかり弾いている。彼は楽譜を
見ないので、私も耳で覚えただけなのだが、これもサティの曲なのだろう。
こんなに近くにいても、過去の天才の亡霊に敵わないなんて。
どれだけの時間、同じ曲を繰り返しただろうか。ふと指を止めたのは、雨の音が大きくなった
気がしたから。不審に思って目を遣ると、扉が僅かに開いて地上の音がゆるやかに、階段を
滑り降りてきていた。
蓮が閉め忘れたのだろうか。両親はまだ仕事から帰って来ていない筈だし。
階段を登り扉を閉めようとした時、扉が外から押さえられた。
「閉めないで」
―――ヴェルヴェットの声。
扉の外の壁にもたれて、蓮が立っている。
「どうしたの?」
驚いて尋ねると、蓮は静かな微笑を浮かべた。
「聴いていたんだ。君の音を」
蓮の指が、チェリオを離れた。不安気に何度も振り返りながら、チェリオが
玄関に向かって姿を消す。
「君の弾いてた曲、何てタイトルか知ってる?」
「知らない……けど、サティでしょ?」
問いの意味が掴めずに言うと、蓮はゆっくりと頷いた。
「いつか言おうと思ってた。これは特別な曲なんだってこと」
そう言って、蓮は私の耳元に唇を寄せた。聴きとれない程の微かな、けれど
確かな、彼の囁き。
『 君が欲しい 』

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