王国を渡る風

「じゃあ、あんたには野心が無いとでも言うんですか!」
 速水の言葉に、深町は椅子を蹴って立ち上がった。その音が、狭い室内に響く。
「野心だと? あんなキチガイじみた妄想が野心か!? 何がやまとだ。ふざけるのもいいかげんにしろ!!」
「あんたはただ、海江田を妬んでるだけだ!」
「副長」
 南波が速水の肩に手を置いた。振り返った速水に、水測長は穏やかに首を振ってみせた。
「艦上に、出ませんか?」


 ここ数日、たつなみ艦長と副長の状態は最悪だった。
 元々「素直な副長」ではなかった速水が、あからさまに艦長に反感を示している。
 それは、一つの焦燥なのだろう。
 つい先日まで同僚であった者が、今は独自の思想の元にいる、という焦燥と、上官が、彼らを
否認しながらも、その生存を無条件に信じていた、ということへの、説明のつけられない憤り。
「お前も、信じてたんだろ? だから危険を侵してテープを調べたりしたんだろ」
 速水は、いくらか自分を抑えながらも、言葉の矛先を南波に向けた。
「さあねぇ。生きてたら楽しいだろうとは、思いましたよ」
「水測長!」
 速水の怒声は、南波の笑みの上を無意味に通りすぎた。
「あんたは? 生きてるとは思ってなかったですか?」
「俺は、死んでればいいと思ったよ」
 速水の言葉に、南波は顎に片手をやってうつむいた。笑いを押し殺しているらしい。
「何だよ」
 ―――そうだ。死ねばいいと思った。奴らが、俺達を置いて、死よりも遠い所へ行ってしまうことに比べれば。
 南波は、しばらく肩を震わせてから、ようやく顔を上げた。まだ目が笑っている。
「速水さん、あんた素直すぎるよ。露悪的な程だ」
 その発言に、速水は言葉を失っていた。怒りと衝撃に支配された副長を見て、南波が再び口を開く。
「うちの艦長も素直だが、あんたとはタイプが違う。あの人は単純だけど、あんた屈折してますしね」
 ―――何を言い出すのだ、この男は。
「やまなみの連中が、羨ましいんじゃないスか?」
 そう言われて、ようやく速水は我に返った。大きく息を吐き、水測長を睨みつける。
「ああ。大いに羨ましいね。うちの艦長がもう少ししっかりしてれば、今頃深海にいるのは我々だったかも知れないんだ」
 彼らが行動を起こしたように、速水もまた、夢という名の野心を抱いている。それは何一つ形になってはいなかったけれど、男なら誰であれ、一度は自分の王国を夢見る筈だ。
 それを、よりによって常に隣にいて競い合っていた連中が、実現させてしまったことが許せない。

「艦長は……あの人は羨ましくないのか? ライバルと呼ばれた海江田さんが、自分を置いて行ったのに、こんなところで謹慎を続けてて、悔しくないのか!?」
「まぁ、羨ましくはないだろうさ」
「どうして!?」
 速水の言葉を無視して、南波はその場にしゃがみこんだ。いくつもポケットを探って煙草を取り出す。その後、ライターが見つからない様子で速水を見上げたが、煙草を吸わない副長のことを思い出したのか、諦めて火のついていない煙草をくわえた。
「羨んだり妬んだりってのは、要するに、相手になりかわりたいって願望でしょうが。あの艦長が、自分以外の誰かになりたいなんて、思いますかね」
 ――――あぁ。
 軽い眩暈を覚えて、速水は南波と並んでその場に腰を下ろした。
「そんな艦長だから、自分らも今までついて来たのと違いますか?」
 どんな時でも、彼は常に彼自身なのだ。
 例え、海江田と同じ選択肢が、深町に用意されていたとしても。
 彼の選んだ道は、彼独自のものであった筈だ。
 速水が笑い声を洩らした。南波が、煙草をくわえたまま目を細める。
「見えましたか?」
 見えましたか? ―――その言葉に、速水は視線を上げた。
 セイルから、遥かに海が見渡せる。
 ―――なんだ、ここも海じゃないか。
 そんな想いが、心をかすめた。そう、最初から、覚えていればよかったのだ。誰も自分を置いてはいけないということを。
 ならば海は、一つの王国。
 誰もが夢見る、広大な王国に目を遣って、速水は口を開いた。
「まぁ……たまには謹慎もいいかな」
 言ってから、苦笑してみせる。
「なんか…情けないなぁ俺も。結局艦長には、何言っても無駄ってことだろ?」
「あの人は、他人の意見なんざ聞きやしませんよ。何年副長やってんスか」
 水測長の言葉を聞き流して、潮風に目を閉じる。焦ることなど、何一つないのだ。時間は充分にある。そして日本政府は、必ず艦長を必要とするだろう。その時こそたつなみは、自由に海を翔けることになる。
 自分自身の王国は、既に用意されていたのだ。
「さて」
 速水が不意に立ち上がった。大きく伸びをする。王国の風が、彼の髪を揺らした。
「もう一度、艦長と喧嘩してくるかな」
「全く。あんたも他人の話を聞かないんだから」
 こたえる南波の声にも、笑いが含まれていた。