Spiral

  彼には <心> が無いのだと 誰かが言った。

「全く君はいつも無茶ばかりする」
 少年の腕の傷を、手際よく治療しながら太乙がぼやく。
「そのうち治療じゃ済まなくなって、また修理することになるよ」
 少年は憮然とした面持ちで、目の前で揺れる彼の黒髪を眺めた。彼の言葉はいつも少年
を苛立たせる。それが正しいものであることを知っていればなおさら。
「何だってこんな無茶な修行ばかりするのさ」
「強くなるためだ」
 その言葉に、太乙は手を止めて笑みを浮かべた。
「殷の太師に負けたのが、そんなに悔しいかい?」
 治療を終えたばかりの拳を、太乙に向ける。そんな彼の仕草に、少年の師は臆する様子
もなく笑みを深めた。
「……逃げないのか?」
「それは、もうやめた。君の遊びに付き合っているほど、暇じゃないんでね」
 寝台から起き上がった少年が、太乙の胸元を掴んで壁に押しつける。
「ふざけたことぼざいてると、本気で殺すぞ」
 苦しげに眉を寄せながらも、太乙は笑みをおさめない。その表情が、少年を一層苛立た
せた。
「………殺せばいい……」
 冷たい汗が、太乙の頬を伝う。少年は小さく舌打ちすると、彼を床の上に投げ出した。
太乙が床に膝をついたまま、喉元を押さえて咳き込む。
「……ほら、やっぱり君は……私を殺せないんだ」
「何が言いたい?」
 呼吸を整えながら身を起こす太乙を、冷ややかな瞳で見下ろしながら少年が問いかけた。
視線を上げた太乙は、少年の表情に気付き、立ち上がるのを止めて壁に背を付けたまま、
その場に腰を下ろす。
 少年も、彼の動きに呼応するように、寝台に腰掛けた。
「だって君は、強くなりたいんだろ? 君が強くなるためには私が必要だってこと、自分でも
判ってるんじゃないのか」
 その声に、自嘲の色を滲ませて、太乙は視線を逸らした。
「そうだよ。私は君を造った。そして今でも、誰かを傷つけるための兇器を、君に与え続けて
いる。……君が傷つけば癒して、すぐまた次の戦場へと向かわせる」
「黙れ」
 太乙の言葉を遮って、少年が立ち上がった。壁際の太乙へ歩み寄り、その前髪を掴んで
強引に視線を合わせる。
「俺が戦うことが不満なのか? 戦闘のための宝貝だろう?」
「違う!」
 少年の手を振りほどいて、太乙は首を振った。いつになく激しい口調に、少年も怪訝な
表情を浮かべる。師の激昂する姿を見るのは、彼にとって初めてのことだった。
「絶対に違う! 今は皆、戦うために宝貝を使うことしか知らないけど、本当は、宝貝って
いうのは、もっと別の使い方だってできるはずなんだ。道を拓いたり、作物を育てたり、
少なくとも私は……」
 一旦言葉を切って、少年を見つめる。漆黒の瞳が、濡れたような光を放つ。
「少なくとも私は、戦わせるためだけに君を造ったんじゃないよ」

 太乙の指が、少年の輪郭をなぞる。煩わしげに瞳を閉じて、その手を払い除ける。
「ならば何のために、俺を造った」
 少年の言葉に、太乙は軽く唇を噛んだ。
「……私は、生命を造りたかった」
 彼を見据える太乙の瞳に、強い光が宿る。
「私は君に、生きて欲しかったんだ」

 耳の奥で鼓動が響く。
 これが、生命の音。
 少年のなかにある、造られた、偽物の生命。

「黙れ……」
 少年が拳を握りしめる。
「黙れ黙れ! そんな話は聞きたくない!」
 少年の拳が、太乙の横の壁を抉る。石壁の破片から身をかわして、太乙は口を開いた。
「目的の無い強さなんて、何の意味も無いよ。蓮の花だって人間だって、戦うために生き
てるわけじゃない」
「生き……てる?」
 太乙の言葉に、少年が腕を下ろした。口元に、冷たい笑みを浮かべる。
「俺は生きてなんかいないじゃないか。魂も、精神も、心も無くて、生きてるなんて言える
のか? 俺にあるのは力だけだ。だから戦うんだ。だから強くなりたいんだ」
「そんな理由で強さを求めたって、それこそ無意味だよ! いくら君が強くなったって、それ
は君の力じゃなくて、君を取り巻く宝貝の力じゃないか」
「それなら!」
 殆ど泣きそうな表情で、少年が叫ぶ。
「それなら、俺には何もないじゃないか。俺がここに! こうして! 存在する意味なんて
何も!」
 太乙がゆっくりと立ち上がる。少年の腕を、肩を、太乙の指が滑っていく。自分を包む
宝貝が、ひとつひとつ外されていくのを、少年は、ただ眺めていた。
「……ごめんね」
 剥き出しの肩に、柔らかな指の感触。
「君が生まれたときに、きちんと話しておけばよかった」
 この指は、どうしてこんなに温かいんだろう。
 もっと触れたい。これが、生命の温度。鼓動だって自分のものとは違う、本物の……。
 少年は慌てて自分の思考を振り払った。
「宝貝を外して、どうするつもりだ? 新しい宝貝人間を造って、そいつにでもやるか?
今度はもっと素直な奴を造ればいいだろう」
「………君の宝貝は、もう一つあるよね。それは自分で外してごらん」
 太乙の指が、少年の胸元をなぞる。その皮膚の下に埋まった霊珠を。
「……これを?」
 戸惑いが、少年の表情を掠める。太乙は、そんな少年の手をとると、自らの胸に押し当
てた。
「その宝貝を外せば、君は死ぬ。……同じものが、私のここにも埋まっているんだよ」
「同じ……」
「私にも君にも、たった一つの大切なものが埋まっているんだ。抉り出して他の人に与える
ことなんて、決してできないものがね」
 太乙の腕が、少年の背に回される。少年は、その抱擁を不快に感じていない自分に、軽
い驚きを覚えていた。
「それが、魂だよ。誰も君の代わりになんてなれない。たった一つの、君の心だ」
 温かいものが、少年の頬を伝った。太乙の指と同じ、生命の温度を持った涙。
「俺の、心」
 まるで自分のものでないような、震える声。
 ずっと欲しかった、自分が、自分であるための何か。
「君は生きてる、生きてるんだ。君の鼓動も、魂も、偽物なんかじゃない」
 誰かに言って欲しかった言葉。自分の居場所。
 生まれてからずっと、求め続けていたもの。この声が、この温度が、少年の求めていた
言葉をくれる。
「君は、人間なんだよ」
 少年はゆっくりと、太乙の背に腕を回して力を込めた。