永遠の羽音
「山中さんっ、千葉っすよ、チバチバ!」
江戸川の川岸を、内海がだかだかと走る。
「チバで悪かったなっ」
怒鳴り返しながら、川原に腰を下ろし、買い込んできたビールとつまみを並べた。隣に溝口も座り込み、早速ビールのプルトップを開ける。
「山中さんの実家、ここからすぐなんスか?」
ろれつの怪しくなった口調で、溝口が訊く。答える俺の声も、おそらくかなり怪しいのだろう。
「近い近い。歩いて5分」
たまの休日に、三人で飲もうということになって、駐屯地近くの居酒屋でさんざん盛り上がった挙句、
どういう話の流れからか、俺の実家を見に行こうということになり、いきなり千葉県までやってきて江戸川
沿いを歩いていた時、不意に内海が、ここで飲もうと言い出した。
近くのコンビニで酒とつまみを買い、暗闇に包まれた川原に戻る。
「おい内海っ、なんで川原なんだよ」
大声で溝口が尋ねると、内海は走ったまま戻ってきて、俺達の前で転がるように止まった。慌てて口を
開けた缶ビールを非難させる二人。
「やっぱ、セ―――――シュンってやつじゃないスか?」
肩で息をしたまま、答える内海。その言葉に、溝口がはじけるように笑った。
「なァにが青春だ。この小学生が」
「み――――ぞぐちィっ」
憤慨したように内海が言って、まだ笑い続ける溝口にのしかかる。
手にしたビールが、豪快にこぼれた。
「うわっ、茶髪になるチャパツにッ」
「うわははは――――っヤンキ―――」
内海の頭に、俺も笑いながらビールをかける。
「わ―――ッ、山中さんっ」
悲鳴を上げながら、内海は缶ビールのプルトップを開けた。
「ゆけ、溝口!」
「おうっ」
背後に回った溝口が、俺の腕を掴む。
「だ――っ、ちょっと待て内海っ」
今度は俺が悲鳴を上げる番だった。身動きを封じられた俺の目の前で、アルミの缶が傾けられてゆく。
「あ―――ぁ、ひっでェ」
びしょ濡れになった三人が、大声で笑う。なんとも間抜けな光景だと、心の片隅で思いながら、俺たち
は笑わずにはいられなかった。
それがおさまると一瞬静かになり、溝口が微かに身を震わせた。
「寒ィな。…山中さん、タバコ下さい」
「お前はどうした?」
「俺のはもう、ずぶ濡れっスよ」
そう言って、胸ポケットからへろへろになった煙草を取り出し、振ってみせる。
「しょーがねぇなぁ」
ポケットからラークを取り出すと、箱の中にはラスト一本。ありゃ。
「悪いな溝口。一本しかないからこれ俺のね」
見せびらかすようにくわえて、ライターを探す。
「内海、GO!」
その言葉に、内海が俺の口元から煙草を掠め取って溝口に渡す。
溝口は素早くくわえて火をつけ、深呼吸すてみせた。
「あーっ、お前ら覚えてろよっ。こんな時だけ結託しやがって」
「へへっ、常日頃から手なずけてますから」
俺はドーブツかっ、という内海の抗議を無視して、溝口が笑う。
やがてその騒ぎがおさまると、夜の川原は小さな沈黙に包まれた。
溝口の口元に灯る煙草の火だけが、瞬くように揺れている。
あーぁ。奪われたせいで、無性に煙草が吸いたくなった。ポケットを探ると、折り良く五百円玉が見つかる。
「内海くん、煙草買って来てよ。ラーク」
我ながら不気味に優しい声で言う。溝口と組んで人の煙草を掠め取ったのだから、嫌とは言わせない。
渋々内海が立ち上がると、溝口も無言で後に続いた。
「あれ、お前も行くの?」
「寒くなってきたんで、動いてきます」
言い置いて二人が消える。ぼんやりと川面を眺めていると、確かに少し寒い。秋風が水を揺らす。髪を
濡らしたビールの匂いが、微かに鼻についた。
もうおそらく、ここへ来ることもないだろう。幼い頃から、ここにはよく来ていた。対岸はすでに東京都。
左手の鉄橋を、時折電車が通り、その時だけ水面が明るくなる。夕暮れ時には、川全体が光の帯と化し、目を細めなければ、眩しくて顔を向けることさえできなくなる。
その光景が好きで、高校の頃はほとんど連日、この道を通っていたっけ。
「山中さーん、タバコ買って来ましたよん」
脳天気極まりない航海長の声で、俺は柔らかな回想から引き戻された。頭上から、四角い箱が降って
くる。
「ラークじゃないぞ、これ」
「俺も貰おうと思って、ロンピーにしました」
笑いを含んだ、溝口の声。
「内海ィ、俺ちゃんと頼んだろ?」
「溝口が、肉まん買ってやるからこっちにしろって」
「肉まんに釣られたのか? 小学生じゃあるまいし」
全く、どいつもこいつも。
内海は幸せそうな顔で、中華まんをほおばっているし、溝口は早くも俺の手からピースの箱を取り
上げ、封を開けて喫い始めている。もはやタバコを吸う気にもなれない。
「お前ら大体、年上の人を敬う心ってもんがなァ……」
「まぁまぁ、ちゃんと山中さんの分もありますから」
手の中に、紙袋が押し付けられる。取り出した中華まんは、まだ温かい。
「だってこれ、俺の金だろ?」
自分で自分の懐柔材料を買うなんて、こんな間抜けな話はない。
でもまぁ、今夜に限り、言いくるめられてやることにする。
「……美味い」
「秋の新作、たこ焼きまんです」
何故か嬉しそうに、内海が言う。もう中華まんが出回る時期になったのか、としみじみ考えながら、
俺は謎の新作とやらにかぶりついた。
新たにビールの缶が開けられる。再び心地良い酔いに引き戻されるのを感じる。
「あ―――――、いい天気だぞぉ」
寝転がり、夜空を見上げて言う。この辺りは住宅街のため、周囲に光源は少なく、晴れ渡った空には、
無数の星が瞬いている。
「本当だ」
内海も頭上に目を遣って言う。
「東京からそんなに離れてないのに、すごいっスねぇ」
突然訪れた沈黙に耐えかねて、溝口がいきなり歌いだした。ムードクラッシャーの面目躍如だ。
「ん抱いてくれたらァ、いいのにひィ―――♪」
驚くほど似ている。(お聞かせできないのが残念です)
「すげーすげー、溝口ってばそっくり!」
内海がやんやの喝采を贈る。
「物真似の基本は、耳だからな」
マイク代わりにしていたビール缶を片手に、溝口が言う。と、その二人の間を、突然黒い影が通り
抜けた。
「わッ」
「何だ今の?」
急激に酔いの醒めた表情で二人が目を合わせる。その様子がおかしくて、俺の口元から笑みが零れた。
「蝙蝠だよ、コウモリ。この辺には、沢山いるぜ」
「コウモリィ?」
溝口が闇に向かって目を凝らした。暗いから、今まで見えなかったのだろうが、先刻から小さな影が
飛び回っている。
「本当だァ」
ぽつりと、水測長が言う。
「へぇ、こんな所に、いるんだ。コウモリ」
文節ごとに区切るように。溝口の考えていることが、何故か手に取るように判った。我々の新しい
潜水艦―――シーバットのことだ。
「あの名前はちょっと、いただけないよなぁ」
内海にも判ったのだろう。殊更に大きな声で言う。
「せめてもーちょっと、愛嬌のある名前にしたっていいのに」
「どんな?」
「ん―――、う―――ん、シーモンキーとか」
一瞬の沈黙の後、三人は弾けるように笑った。
「そりゃ、お前と溝口しか乗れないなァ」
「こいつと一緒にするんスか? 山中さん」
憤慨した溝口の声にも、笑いが含まれている。笑わなくてはやっていられないからだ。誰でも、この
明るさの背後に隠された深淵に気付いている。
その証拠に、笑いがおさまった後には、痛いほどに重苦しい静寂。
「あれ、本当ですかね、艦長の」
「あぁ、アレね。海江田さんのことだから、本気だろ」
内海の問いに、ぼんやりと答える。シーバット計画の発表があった日、やまなみ乗員を集めて艦長
自身の口から打ち明けられた、例の計画。
「何考えてんでしょうね、うちの大将は」
「何であれ、信頼してついていくしかないだろ、俺らとしては」
不安が無い、と言えば嘘になる。けれど、長年同じ艦で働いてきて、培われた信頼は、あの人について行って間違いはない、と断言するのだ。
「山中さん」
地下牢の鍵を開けるかのように、内海がゆるゆると尋ねかける。
「奥さんに、何か、言いました?」
「いいや」
不意に、内海が羨ましく感じられる。
他に家族もない、誰に告げることもない彼が。
「山中さんのとこ、娘さん、でしたっけ」
「あぁ」
何で今更そんなことを訊くのか。そんなことを思い出させるのか。
傷口をなぞられるような痛みに、僅かに顔をしかめる。
「ちくしょ――――っ、俺なんて彼女と別れたぞぉッ!」
溝口の絶叫に、俺と内海は密かに安堵して彼を顧みた。いつの間にか、三本目のビールも空けられ
て、足元に転がっている。
「あちゃー。酔ってるよコイツ」
呟くと内海は不意に立ち上がった。そのまま水際まで走る。先刻から元気な奴だ。と、内海は川面に
向かって声を張り上げた。
「やまなみ―――っ、愛してるぞぉっ!」
その言葉に、俺と溝口も弾かれたように立ち上がる。怒鳴り声を上げて、彼の元へ走る。
「内海ィ、お前っ、抜け駆けしやがってッ」
「少なくてもソナー室は俺のもんだッ!」
半ば自棄気味に、俺達は川に向かって叫んだ。これでは一昔前の青春ドラマだ。
それでも、湧き上がる想いを抑えることができず、叫び続けた。
しばらくして溝口が、魂の抜けたような表情で、その場にしゃがみこんだ。つられて残る二人も腰を下ろす。
「王様の耳はロバの耳…」
結局、それが俺達にとって、最も必要なことだったのだ。大きすぎる秘密を抱え込んだ俺達は、誰もが
出口を求めて闇の中をさまよっていた。
最も近い家族にさえ、何一つ伝えることもできずに。
「山中さん、俺ねぇ…」
不思議に幸福そうな表情で、内海が語りかけてくる。
「やまなみが、誰の手も届かない深いところに、沈んでくれればいいと思うんです。もう二度と乗れない
なら、誰も引き上げられない深い海の底で、永遠に眠り続けていて欲しいんです。ワガママですかね」
軽く微笑んで、内海の肩に腕を回した。子供のように高い体温が、微かに流れ込んでくる。溝口がゆっ
くりと俺の左隣に位置を移したので、そちらにもう片方の腕を預ける。溝口の肩は、対称的に冷たい。
「お前、肩冷たいな」
「あ、さっきのビールっスよ。道理で寒いと思った」
「馬鹿、風邪引くぞ」
俺の湯タンポ貸そうか、と右腕に力を込めると、内海が抗議の声を上げた。
「湯タンポって、俺っスかぁ?」
「体温の高さは、小学生並みだからな」
怒ったような表情を作ってみせてから、内海は立ち上がり、身を移した。
後ろに回り、溝口と背中を合わせる。
「あ―――、あったけ―――」
「しまった、こっち向きでは川が見えん」
二人のかみ合わない会話に苦笑する。
たとえ、やまなみが沈んでも、こいつらがいれば大丈夫だと、その時思った。こいつらとあの人と。
外泊を願い出た時の、艦長の表情を思い出す。
自分本来のものの他に、俺達の分の秘密も全て背負っているような、何もかもを理解している顔。
そう考えるのは、俺の買いかぶりだろうか。何にせよ、あの人を殉教者にするわけにはいかない。
そんなことをつらつらと考えながら、俺はいつしか眠りに落ちていった。
まぶたの裏まで、忍び込んでくる陽光に、心地良い眠りから引き戻される。
眩しさに耐えて細く目を開けると、川面が朝日に白く染まっていた。
上流から昇った太陽が、夕刻になると下流に姿を消す。その様を思い起こしながら、事の顛末に頭を
めぐらせた。
「成程。寝ちまったのか、俺は」
頭痛の原因が二日酔いであったことに気付き、顔をしかめて呟くと、視界内に内海と溝口が姿を現す。
「今頃起きたんスか、山中さん」
「おかげで俺達、昨晩寝てないんスけど」
恨みがましい声。家に泊めると言いながら、こんなところで野宿させてしまったのだから当然か。
「スマン」
両手を打ち合わせて頭を下げる。沈黙の長さに耐え切れなくなって目を上げると、二人は苦笑しながら
顔を見合わせていた。
「あのねぇ、山中さん」
内海が口を開く。
「俺達昨晩ずっと考えてたんスけど……とことんまで、ウチの大将を信じてみることにしました」
妙に晴れ晴れとした表情。
「結局俺達にできることって、それしかないし。実を言うと何だか、ワクワクしてるんですよ。あの人と同じ
夢を見られるのかと思うと」
「お前ら―――」
続く台詞は、言葉にならない。代わりに笑いが、口を衝いて飛び出した。永遠に続く歓声。
「…まだ酔ってるよ、このヒト」
そう言いながら、内海と溝口も笑い出す。くすぐったいような、ほんの少し照れくさいような笑み。
大丈夫だ。何が起こっても。最高の潜水艦、最高の艦長。そして最高の仲間達。
―――ずっと同じ、夢を見よう。

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