Tender Fugue

「だからさ、例えば自分に、どうせ叶わないと思って諦めた夢があるとするだろ」
 俺の言葉に、奴は黙って頷いた。その反応に満足して、俺はラークを一本箱から取り
出し、火をつける。
 たちのぼる紫煙が、奴の部屋を覆ってゆく。
 奴は煙草を吸わない。けれど嫌煙家というわけでもなくて、かつて俺に話したことが
ある。
『人が煙草を吸ってるのを見るのが好きなんだ。呼吸に合わせて点る灯りとか、揺らぐ
煙とか、さ』
 そんな奴だからこの部屋には人の出入りが多く、同僚たちの吸う煙草の匂いが、壁に
染みついていたりもする。
 ぼんやりと思いを巡らせていた俺に、奴は目顔で話の続きをうながした。
 頷き、ラークを灰皿に押しつける。
「だけど、その夢を今でも願っている人間が身近にいるとする。そしたら、俺に選べる
道は、全力でそいつの夢を叶えてやるか、逆にその夢を打ち砕くかしか、ないじゃないか」
「お前は。そいつの為に必死になるタイプだな」
「あぁ」
 不本意ながら自分でもそう思う。現に‘彼’の夢の実現に生命すら賭けようとしてい
るのだから。
「さしずめお前は、破壊工作にまわる方だろう」
 かもな、と呟いて、奴は水割りのグラスを軽く揺らした。
「だけど、誰もがそう思うわけじゃないよ。うちの艦長みたいに、自分が夢見てること
に気付いてないようなのもいるし」
 奴の言葉に、思わず苦笑が漏れる。確かに、奴の上司は自分の理想を、夢だの何だの
と名付けることはしないだろう。彼は迷わずに自らの歩く道を定める。だから彼の周り
には、夢を現実にする力のある連中が集まってくる。
 ―――だけどそれは、うちの艦長だって同じことだ。
 俺が幼い頃漠然と感じていた夢は、あの人が語った途端に現実になった。その瞬間の
衝撃は、きっと一生忘れない。口惜しさと、誇らしさと、説明のつかない感情が俺の胸
を占領したことも。
 俺のグラスが空なのに気付いた奴が、氷を取りに部屋を出て行った。その間に、二本
目のラークに手を伸ばす。
 いつも大勢で押しかけている奴の部屋が、一人きりだとやけに広く感じられる。
 そういえば、一人で奴を訪ねたのは初めてだ。一人暮らしの同僚の部屋というもの
は、とかく仲間どもの集合場所になるもので、奴の部屋も例外ではなく、俺が訪ねる時
には、先客がいることがほとんどだった。そしてその先客は、大抵の場合、奴のすぐ上
の上司だった。
 いつも、奴の艦長が我が物顔で占めている位置に、今夜は俺が座っている。そう考え
ると、何が可笑しかったのか、のどの奥が微かな笑い声を立てた。
 奴が戻ってくる。俺は口元を引き締める。
 手際よく水割りを作った奴は、グラスを俺の方に押しやりながら言った。
「お前の見た夢って、何だったワケ?」
「言ったら壊されるからな。言わない」
 そう答えると、奴は拗ねたように頬をふくらませてみせた。大勢でいる時にはまず見
せない、子供っぽい仕草だ。
「いいよ。じゃあ、自力で探し出して壊してやる」
 つ、と奴が片腕を伸ばした。男のものとは思えない程白く細い指が、俺の眉をなぞ
る。
「見つけ出して、打ち砕いて……もう二度と夢なんて見られないくらいに」
 眉を、こめかみを、耳朶を、弄ぶような指の動きとは裏腹に、真剣な口調。思わず
からかいたくなって、俺は奴の手首に触れた。
「かっこいいな。プロポーズみたいだ」
「お前なぁ……っ!」
 顔を真っ赤にして、慌てて腕を引く。その仕草に、俺は堪らず吹き出した。
「笑うなよっ。これは、プロポーズじゃなくて、ライバル宣言だろ!」
 それでもたっぷり三分は笑い続けた俺を、奴は憮然とした表情で見遣った。
 ライバル宣言…ねぇ。俺が奴の目の前から消えたら、奴は追いかけてくるだろうか。
見つけだして、捕まえて―――どこまでも?
「面白そうだな。俺はどっちかって言うと、追われるより追う方が好みだが、まぁ……
たまにはいいか」
 お前になら、の一言を危ういところで押し止めて、酔いを自覚する。気付かぬうち
に、随分と飲んでいたらしい。そっと奴の方をうかがうと、奴もグラスを手にしっかり
目が据わっている。
「そうだよ。追いかける。どこまでも追っていくから……安心して逃げていいぞ」
 グラスを片手に、空いた手で俺の袖を掴む。
「馬鹿。誰が逃げんだよ」
 軽く答えながらも、俺は必死に動揺を押し隠した。近い未来の「事件」のために、俺
達は―――俺と同じ艦の連中は浮き足立ってる。誰にも言えない秘密と不安を、胸の奥
に閉じ込めている。
 それを、奴は敏感に察知したらしい。成程、今日家に呼んだ理由はそれか。
「逃げたりしないから、安心しろ」
 俺は微かに笑って、平然と嘘をついた。
 これからだ―――何もかも。たった一つの夢のために、俺はいくつもの嘘をつき続け
るだろう。全てを犠牲にして、自分を心配してくれている友人を、平気で裏切るだろ
う。
 あの人の、夢のために。
「なら、いい」
 呟いて、奴が俺の袖を離した。―――ごめん。胸の中で、謝罪の言葉を繰り返しなが
ら。
 俺はもう一度、ゆっくりと微笑んだ。