星と桜貝 〜雨音の匣・U〜 

 景ちゃんには、左耳が無かった。
 中学に入学してすぐの頃、肩に届くぐらいの長い髪を掻き上げて、見せてくれたそこには耳は無く、ただ薄桃色の引きつったような縫い跡があった。
「ずっと昔のことだよ」
 その時の景ちゃんは目を閉じていた。まるで耳の代わりに、瞼で音を聴こうとしているみたいに。
「母さんが切っちゃったんだ。嫌なことを聞かずに済むようにって」
 ボクは何と言っていいのか判らず、その桜色の傷痕がとても綺麗に思えたので、よく似合うよ、と言った。
 すると景ちゃんはゆっくりと目を開いて、ありがとう、と静かな声で応えた。
 それ以来、ボクと景ちゃんは毎日一緒にいるようになった。


 景ちゃんのお母さんは入院していて、景ちゃんはお父さんと二人で暮らしていた。
 お父さんは忙しくてあまり家にいないので、ボクはよく景ちゃんの家に遊びに行った。広くて部屋がいっぱいある景ちゃんの家は、ボクらの楽園だった。
 ボクと景ちゃんのお気に入りは、書庫と呼ばれる部屋だった。その部屋には窓が無くて、大きな柱時計と、沢山の本棚と、その本棚にぎっしりと詰まった、数えきれない程の本があった。
 ボクと景ちゃんは、本棚の間の、高い所の本を取るための台に腰掛けて、大きな絵の本を眺めたり、リラダンという人の書いた小説を、一段落ずつ交替で朗読したりした。
 その日、いつもの様に書庫で絵の本を眺めていると、頁をめくる景ちゃんの手が止まった。
「この絵の人、母さんに似てる」
 それは、ウォーターハウスという人の、シャーロットの乙女という絵だった。
「綺麗な人だね」
 そう言うと、景ちゃんは少し嬉しそうに、うん、綺麗な人だよ、と頷いた。
  ボク達は暫くその絵を眺めた。柱時計が五回鳴った時、景ちゃんが口を開いた。
「母さんはね、ここが弱いんだ」
 そう言って、胸の辺りを手で押さえる。
「心臓?」
 尋ねると、景ちゃんはそっと首を振った。
「心臓よりも、もっとずっと大事なところ」
 その時ボクにはまだ、人に心臓よりも大切なものがあるなんて知らなかった。心臓が止まれば人は死んでしまうのだから、それが一番大切なのだと思っていたのだ。
 ボクは釈然としないまま、ただ小さく、ふぅん、と呟いた。


 ボク達は、夜中にこっそり家を抜け出して、近くの川原に行くのが好きだった。
 周り中の家の灯りが殆ど消えた真夜中には、信じられないくらい多くの星が見える。景ちゃんは沢山の星座を知っていた。
 暗い川原に二人で腰を下ろしている時、景ちゃんはよく煙草を吸った。
 煙草の灯りはまるで地上に一つ星が増えたみたいで、とても綺麗だったけれど、ボクは何故かそれが嫌いで、景ちゃんの吸っている煙草を時折素手で握り潰した。
 その時の痕は、まだボクの掌に幾つも残っているけれど、景ちゃんの傷痕のような桜色じゃなくて、薄い褐色をしている。
それはまるで、ボクの掌に残された星座。


 ボクと景ちゃんは、毎日の殆どの時間を一緒に過ごしていた。
 それはすごく当たり前のことで、ボクはそんな生活が一生続くと思っていた。
 だからボクは考えたことが無かった。景ちゃんが突然いなくなってしまうなんて。
 あの十一月の、雨の日までは。


 その日、景ちゃんは学校を休んでいた。景ちゃんは身体が弱くて、月に一週間は休みか遅刻か早退をしていた。
 ボクはその日、先生に言われて、景ちゃんのところへプリントを届けに行った。ボクと景ちゃんがいつも一緒にいるのは、先生達も皆知っていたし、景ちゃんの家に一番近いのがボクの家だったからだ。
 家の前で、ベルを鳴らして暫く待ったけれど誰も現れなかったので、ボクはそっとドアを開けた。
鍵はいつも掛かっていなかった。
 その日の午後から降り出した雨は、全くひどい勢いになっていて、ボクは一刻も早く家の中に入りたかったのだ。
 家に入って呼んでみても、応える声は無い。書庫にも、景ちゃんの部屋にも誰もいなくて、居間には楕円形の平べったいデザインの電話機が、受話器を外されたまま床に転がっていた。
 受話器に耳をあててみたけれど何も聴こえないので、ボクは諦めて電話機を元の位置に戻した。
 居間のソファに沈み込んで耳を澄ます。
 目を閉じて、耳と瞼で音を聴く。
 あの時の景ちゃんみたいに。
 激しい雨の音。そして、それに混じって聴こえてくるのは。
 ボクはゆっくりと立ち上がった。雨の音に重なって、もう一つ聴こえる水の音。
 浴室のドアの前に立つ。中からはシャワーの音が間断無く聴こえてくる。
 ボクは、なぁんだ、と思った。お風呂に入れるなんて、景ちゃん、元気なんじゃないか。
「景ちゃん」
 呼び掛けてみたけれど、シャワーの音は相変わらず続いているので、ボクはもう少し大きな声を出した。
「景ちゃん、ボクだよ。プリント持って来たんだ」
 応える声は無い。シャワーも止まらない。ボクは不安になって浴室のドアを開けた。
「景ちゃん!!」

景ちゃんは、浴室の床の上に、寝そべるように倒れていた。服を着たままの身体にシャワーから、冷たい水が降りそそいでいる。
 ボクは慌てて景ちゃんに駆け寄った。抱き起こした身体はあまりに冷たくて、ボクの心臓を止めてしまうかと思った。
 すぐにシャワーの水を止めたけれど、思い直して、熱いお湯を出す。
 名前を呼びながら頬を叩くと、景ちゃんはぼんやりと目を開けた。
「景ちゃんっ」
「……雨が」
 景ちゃんの視線はボクを通り過ぎて、どこか遠くへ向かっている。
「雨が、止まないんだ」
 それきり、何も言わずに、顫える腕でボクにしがみつく。ボクは景ちゃんを抱き止めたまま、浴槽にお湯を満たした。
「服、脱いで。お風呂入って。五分したら、また呼びに来るから」
 けれど景ちゃんは腕を搦めたまま動かない。顫える唇が、声にならない言葉を紡ぎ出す。行かないで、と景ちゃんが言った。
 行かないで。頼むから、傍にいて。
 ボクはちょっと肩をすくめて、浴槽に背中を預けた。
「じゃあ、ここにいるよ。景ちゃんが出るまで、ここにこうして座ってる」
 それでも景ちゃんは、暫くの間顫えていたけれど、やがてゆっくりと腕をほどいて立ち上がった。
景ちゃんの前髪を伝う雫が、ボクの頬に落ちる。
 ボクは何となく視線を合わせられずに、湯気に曇った浴室の天窓を眺めた。
 少しして、背後で景ちゃんが浴槽に身を横たえる音が聴こえた。ボク自身、もうすっかり水びたしになってしまっていて、一緒にお風に入ってしまいたい気分だったけれど、ボクは身動ぎもせずに浴槽に背を向け続けた。
 景ちゃんの左耳の傷痕は、お風呂上がりなんかで温まると、薄桃色を通り越して朱く染まる。
何故だか今だけは、それを見たくなかった。
 シャワーが止まると、浴室の中はやけに静かで、遠くに雨の音だけが聴こえている。
 長い長い沈黙の後、景ちゃんが溜息とともに言った。
「母さんが、いなくなったんだ」
 とても静かな声。
「ね、あの薬、憶えてる?」
 不意に水音がして、ボクは景ちゃんが浴槽の中でこちらを向いたことに気づいた。
「あの薬ね、母さんがくれたんだよ」
  ボクは憶えていた。景ちゃんが大事に机の中にしまっている薬。薄青い硝子壜に入った、金平糖のような形をした薬。景ちゃんは、それを見せてくれた時、これは、どこにでも行ける薬なんだよ、と言った。一粒飲めば、どこへでも、望む所へ連れて行ってくれるんだ。その時の景ちゃんは、まるで魔法使いの弟子みたいに得意そうに見えた。
 ボクは後ろ向きのまま、そろそろと浴槽の縁に手を伸ばした。景ちゃんが、それに自分の手を重ねる。
 ボク達は何も言わずに、浴槽越しに長い間、手をつないでいた。
 雨の音。


 翌日、学校に行くと先生が、景ちゃんは転校したと告げた。
 学校帰りに景ちゃんの家に行ったら、そこには誰の気配も無く、扉には鍵が掛かっていた。
 景ちゃんはいなくなってしまった。
 景ちゃんは、金平糖のような薬を飲んで、どこかへ行ってしまったのかも知れない。
 もしかしたら、とボクは思う。
 もしかしたら景ちゃんのお母さんも、その薬を飲んで、いなくなってしまったのかも知れない。

 
そして今、二人は誰も知らない所にいるのだ。
 シャーロットの乙女のように綺麗な、景ちゃんのお母さん。
 桜貝のように綺麗な、景ちゃんの傷。
 その日の夜、ボクは少しだけ泣いた。泣きながら眠って、一艘の小舟に乗った、景ちゃんとお母さんの夢を見た。
 二人はとても幸せそうで、舟を浮かべた水は、硝子壜のように透明な薄青色をしていた。
 ボクは水辺に立って、景ちゃんの失くした左耳を握りしめていた。
 さよなら、景ちゃん。今なら判るよ。胸の奥で痛みを堪えているここは、心臓じゃないんだ。
それは、心臓よりも、もっとずっと大切な何か。
 さよなら景ちゃん。そしておやすみ。よい夢をね。


 けれども今になって、ボクは思うんだ。
 掌の、煙草の痕を見る度に。本当は景ちゃんはいなかったんじゃないか、って。
 誰よりも綺麗な傷痕を持った景ちゃんは、最初からどこにもいなかったんじゃないか、って。
 だって景ちゃんは今では、ボクの夢の中にだけいるように思われるのだもの。