銀の音匣
マックスウェルの悪魔。回避できない宇宙の熱死。
どこかで読んだ誰かの言葉が、脳裏を掠めた瞬間、窓際に立つ未狂が振り返った。
みくる。未ダ狂ワズ。何とも奇妙な名を持ったこの少女は、中学入学以来の私の親友だった。
ゆるいウェーヴを描いた栗色の髪。細い首、白い肌。瞳は時折、煙るように灰色に輝く。
時は放課後、他には誰もいない美術準備室。私達は美術史研究会の名目で、この部屋の使用許可を得ていたけれど、本当は美術史などはどうでもよくて。ただ、未狂曰く、この部屋の形こそが重要だったのだ。
円は魔を退ける、と言うけれど。その理屈でいくと、多角形ほど魔を魅きつける、ということになる。
そしてこの部屋は、実に奇妙な、歪んだ六角形をしていた。
入り口は狭く、扉一枚分しかないのに、室内は不自然に広い。一般教室並みに広い窓には、絵の具の変色を避けるためか、普段は厚い暗幕が掛かっている。
魔に相応しい部屋に、魔に相応しい美少女。眩暈がするほど完璧なシチュエーションに、けれど未狂はかつて、こう言ったのだ。
「あたしじゃ駄目よ。魔物は透明度の高いものに魅かれるんだから。不純物はなるべく少なくなければね。和泉、あんたでなきゃ」
私にしてみれば誰よりも純粋な存在である未狂が、透明な笑みを浮かべて言う。
「和泉はあたし達の計画に最適だわ。黒檀の髪、雪花石の肌、薔薇の唇に紫水晶の瞳」
「紫水晶は、魔除けの石ではないの?」
「違うわ。アメジストは魔封じの石よ。つまりは、魔を秘めた石」
話しながら、彼女が髪をかき上げるたびに、薔薇と翼をモチーフにした指輪が光る。
そして彼女は今、指輪をはめた片手で私を招き、囁くように言った。
「見つけたわよ、世界樹」
その言葉に思わず身を乗り出すと、彼女は満足気に目を細めた。
私達は世界樹を探していた。それは決して北欧神話のユグドラシルである必要はなくて、ただ私達二人の世界を支えられれば充分だったのだけれども、その条件はなかなか厳しく、一夏を費やしても容易には見つからなかったのだ。
「どこで見つけたの?」
「さくら公園の向かいに、古い洋館があるでしょう。その門の内側に、大きなレバノン杉の樹があるの。あれに間違いないわ」
未狂の言葉に、私は首をひねった。さくら公園の向かいの洋館は知っているけれど、そんな大きな樹があるとは知らなかった。
「記憶に残らないのは、本物の証拠よ」
そう言って、鞄を手にする。
「これから行くの?」
「勿論よ。折りよく今は誰彼時。扉の開く時間じゃないの」
校舎を出ると、まだ明るさを残す空に、消えそうに細い、にやにや笑いの月が架かっているのが見えた。
「見て、チェシャ・ムーン!」
指差してから、未狂が身を翻して走りだす。月の視線を背中に感じながら、私も彼女の後に続いた。
さくら公園の向かいには、お化け屋敷と呼ばれる洋館がある。
息を切らして鉄の門扉から覗き込むと、確かにそこには巨大なレバノン杉の樹があった。
「あの樹のこと?」
尋ねると、未狂は無言で頷いた。樹の影は長く、鉄柵の間を縫って、私達の足元まで忍び寄って来ている。
「さ、行くわよ」
そう言って、未狂が鉄の門扉を押すと、扉はまるで、盟約を受けたかのように静かに開いた。
樹の上にいた一羽の鴉が、見咎めるかのように高く啼く。
「ネヴァーモア」
呟きの後に、未狂のクスクス笑いが続いた。
「和泉先生、あたし達はアッシャー家に迷い込んだのかしら」
「そうよ。そして家の中には、七色に塗り分けられた、七つの部屋があるというわけ」
「やだわ。それじゃまるで、この家に災いをもたらしに来たみたいじゃないの」
「あら、駄目よ。赤き死の仮面は、沈黙の裡に災厄を運ばなくちゃ」
唇に指を当ててみせると、未狂のクスクス笑いは一層大きくなった。
笑みを浮かべたまま、樹に近付く。
「それでは疾風のように迅速に、確認を済ませてしまわないとね」
「えぇ。頼むわよ。我がメェルシュトローム」
未狂が、指輪を外した手を大木の幹に伸ばした瞬間、
「触らないで!」
冬の湖のように澄んだ声が響いた。その声はあまりに透明で、私の耳朶を貫いて微かな痛みを残した。
「触れては駄目。それは首吊りの樹よ」
振り向いた視線の先には一人の少女。十歳になるかならず、といった風貌の少女が、黒いヴェルヴェットのワンピースを着て、腕には白いうさぎのぬいぐるみを抱えている。そして果たせるかな、腰まで伸びた髪を飾る、大きなリボン。
「やれやれ。守護者はアリスですか」
小さく呟いて、未狂が肩をすくめた。
「それじゃ、首を吊ったのはレノアというわけね」
「そうよ。彼女は最早ないわ」
少女の言葉に、私達は顔を見合わせた。未狂の瞳は鈍色に反射して、どうやらこれはただのニンフェットじゃなさそうだぞ、と告げている。
「あなた、なんて名前?」
私が尋ねると、少女はパールピンクの唇をすぼめて、るる、と呟くように答えた。頷いて未狂が一歩踏み出す。
「OK、ルル。あたし達を、お茶に招待してくれないかしら。帽子屋と三月うさぎは、こっちで用意するわ」
少女が首を傾げる。
「お茶のお礼には、何を教えてくれるのかしら」
くせの無い黒い髪が、肩を滑る。問いかける声は、銀の小鳥。
「知りたいことは何でも。ヴァルドマアル氏の病症の真相でも、蒼ざめた薔薇の咲かせ方でも―――緑玉の化学式でも」
ルルがゆっくりと、エメラルドの瞳を細めた。
「奇妙なお茶会になりそうね」
身を翻し、誘うように洋館の中へ消える。頷いて後に続きながら、私は未狂がそっと杉の樹の根元に、小さな銀の鈴を落とすのを見た。
いくつもの燭台が飾られた、長い通廊。
三人の影が足音を吸い込んでしまうのか、空気は微動だにせず、周囲は静まりかえっている。
「テレーズが出てきそうな家ね」
囁く声も、すぐに大気に消えてしまう。
「ルルこそが、自動人形なのかも知れないわよ」
「外から見た限り、鐘楼は見つからなかったけど」
囁きを交わすうち、少女は一枚の扉の前で立ち止まった。
「こちらへどうぞ。すぐにお茶の用意をするわ」
少女が扉を開く。私達は思わず息を呑んだ。
正面に広がる、一面のステンド・グラス。
「……竜胆だ」
窓に駆け寄り、硝子の図案を指で追っていた未狂が呟いた。
「この家には、金糸雀がいるに違いないよ」
それきり窓を離れ、革張りのソファに腰を下ろす。私も並んで腰掛けて、未狂の視線を追った。
薄茶の寄木細工の机の上に置かれた、銀の匣。
「その匣には、天使が入っているのよ」
歌うような声に目を上げると、ルルの姿は消えていた。腕を伸ばし、机上の匣を取り上げる。蓋の中央には、未狂の指輪と同じ、薔薇と翼の紋章。
「開けてごらん」
未狂の言葉に、銀の留め金を外す。十センチ四方の、小さな匣。蓋を開けると、部屋の中に柔らかな音楽が流れ出した。
「夜は優し……か」
未狂が呟き、クスクス笑いをもらす。
「すると彼女は、ルルではなく、ルルゥというわけね。和泉、あんたがクリスティーヌよ」
こらえきれず、笑いはますます大きくなる。未狂はしばらくソファの上で、私の膝に額がつく程身を折って笑っていたけれど、突然に震えを抑えて立ち上がった。
「行くわよ、和泉」
「どこに?」
私も慌てて立ち上がる。
「捜しに行くのよ。流薔園の住人を」
いつの間にか、窓の外に夜が忍び寄ってきている。細長い硝子に区切られた回廊。
足音が闇に溶ける。古い燭台の灯りだけでは心許ない、夜の霞。
「和泉、もしあたし達が、一冊の書物の登場人物に過ぎないとしたら、どうする?」
不意に未狂が振り返った。鈍色の瞳が蝋燭の光に反射する。
「今、これを読んでいる誰かが、本を閉じる瞬間に、あたし達が消えてしまうとしたら、どうする?」
表紙を閉じる音が聞こえる。そして私達は消滅する。
そんなことありえない、とは言えない。未狂の瞳は全ての可能性を肯定する。
「立派な本だといいわね。紫紺の表紙は、革よりも布張りがいいわ。題字は金の箔押しで」
「タイトルは?」
彼女の瞳の色が和らぐ。私の好きなスレート・グレイ。
「さかしま、テアイテトス、人でなしの恋……」
思いつくままに口にすると、未狂がゆっくり首を振った。
「盗作は駄目よ」
薄く笑う。
「未狂だったら、何てつけるの?」
「そうね……< 矩形の匣 >なんてどう?」
クケイノハコ。舌先で響きを確かめる。悪くない。そう告げると未狂は満足そうに頷いてみせた。
「この本が閉じても、あたし達が離れてしまわないように、魔法をかけようか」
そう言って、悪戯めいた微笑を浮かべる未狂。
「魔法?」
「そうよ。瞳を閉じて」
瞼の裏で、闇が一層深くなる。重なる影に気付く間もなく、私の唇に何かが触れた。
慌てて瞼を開けると、未狂の睫毛が私の頬を掠めて離れた。
「……未狂?」
「月の魔法。チェシャ・ムーンの夜の儀式は、女の子だけの秘密よ」
そう言って、人差し指を唇に当てる。私の唇に触れた、形良いローズ・ピンク。
窓の外には、同じ形のミモザ・イエローが、変わらぬ笑みを浮かべていた。
そして彼女は扉を開ける。
扉の向こうは、巨大な籠。
「温室……」
極彩色の植物達が、硝子越しの月光を受けて輝くサンルーム。
肌に感じる気温が跳ね上がる。夏の名残の風が、開け放たれた天窓から流れ込み、前髪を揺らす。
腰まで伸びた羊歯の群生。眩暈を誘う葉ずれの音。
そして細い月を背にして窓際に立つ少女。
「……ルル」
微かな呟きは、羊歯の奏でる音楽にかき消された。
「天使の鳥籠へようこそ、イズミ」
そう言ってルルが左手を差し出す。抗いがたい月の引力。
戸惑いながら、未狂を振り返る。
「―――未狂!?」
視線の先で、未狂が眉根を寄せて膝をつく。呼吸が荒い。
「未狂、どうしたの!?」
未狂の指が、自らの制服の胸元を掴む。薔薇の指輪が月の光を受けてきらめいた。この部屋では、月がやけに眩しい。
「そういう……ことなのね」
声に苦痛を滲ませて、未狂がルルを睨みつけた。
「硝子の結界とはね。小賢しいったらないわ」
「月のある限り、この温室は増幅器にも緩衝器にもなるの。天使を閉じ込めるには最適の檻だと思わないこと?」
ルルがパール・ピンクの笑みを浮かべる。
未狂が灰色の視線を私に向けた。私は困惑を隠せずに彼女の瞳を覗き込んだ。
「どういうことなの?」
「選ぶのは貴方だということよ」
未狂が口を開くより早く、ルルの澄んだ声が大気を揺らした。
「貴方が月を見るのではなく、月が貴方に魅入るのよ。この部屋では、選択権は常に人の子にあるわ」
ルルの言葉を追うように、鈴の音が響く。
先刻未狂が、杉の樹の根元に落とした鈴。
「やっぱり、そうだったか」
未狂が、苦し気な口許を笑みの形に歪める。ルルが僅かに目を細めた。
「先刻、例の樹の根元に、凪の鈴を落としておいたのよ」
凪の鈴―――小指の爪程の大きさの、銀色の鈴。
凪の鈴は風に揺れない。その代わりに大地に落とせば、地中の微かな振動を音色に変える。
成程。
凪の鈴が月夜に啼く、ということは。
「その通りよ。あの樹は夜に成長するわ。月の光を餌にして……ね」
笑みを深めるルル。歌うような金糸雀の声。
「選びなさい、イズミ。月に心を奪われる前に、月の光を喰らって生きることを」
そして貴方は永遠を手に入れる。
緑玉の瞳が、言葉よりも雄弁に語る。少女の過ごしてきた限りない歳月を。
ルルにとっては―――大人にならない、ということは大きな意味を持っていたのだろう。時を止めるのは少女だけの魔法なのだから。
そして、未狂にとっては。
いつか私は、未狂を捨てて大人になるだろう。
月齢は十五を越えることはないのだ。
私達が世界樹を探していたのは、二人の時間を刻むためだった。誰かが本を閉じるよりも前に引き離されてしまう、私達のために。
そう。引き離されてしまう―――私が時を止めない限りは。
「―――嘘よ」
震える指先で唇に触れる。時の魔法よりも早く、未狂は私に魔法をかけたのだ。
「未狂を傷つける人の言葉なんて、信じられない」
未狂と並んで片膝を付く。未狂の肩に置いた右手が、彼女の苦し気な呼吸を伝える。
今すぐ、助け出してあげる。この檻から。
慎重に、言葉を紡ぎだす。記憶の淵から、かつて未狂に聞いた呪文を呼び起こす。
「月は闇の属性を持つものではない。何故ならば月は鏡にすぎないのだから」
全てを映す月は、天空に掛かる巨大な鏡だ。それは闇を伝えると同時に、昼の光をも私達に投げかける。
大きく息を吐く。
言葉が呪力を持つのが判る。ルルが目に見えて動揺する。
私がルルに近い存在なのだとすれば。この部屋の魔力を、私も使うことができる筈。
この言葉が、世界を滅ぼすことだってできる。
「私は、未狂を選ぶわ」
瞬間、温室中の硝子が砕けた。
突風が、痛い程に髪を揺らす。
「未狂、立って!!」
腕を掴んで走り出す。迷宮の出口へと。
屋敷が大きく震動する。
「崩壊の時が来たんだわ」
世界樹を擁したアッシャー家。少女の愛した蒼鴉の城。
テラスから庭へ走り出て、私達は屋敷を振り返った。巨大な洋館は、月の光を受けて崩れ落ちつつある。
「あんたが、呪縛を解いたのね」
いつもと変わらぬ声で、未狂が呟く。
「未狂の魔法のおかげだよ」
未狂が魔法をかけておいてくれたから、私は信じるものを見誤らずに済んだのだ。
彼女の指が、私の髪に触れた。
夏の終わりの蛍のように、彼女の言葉が私の皮膚を伝う。
「選んでくれて、ありがとう」
強気の未狂に似つかわしくない、感謝の言葉。視線の先では、屋敷が既にその姿を完全に変えている。
「これでようやく、ルルも還れたのかな」
時を止めた代償は、急速な崩壊。大鴉の啼き声を聴くまでもなく、裁きは下されたのだ。
「きっと還れたね。だって彼女はアリスだもの」
目覚めの特権を与えられた少女。夢の終わりには、必ず誰か待つ人がいるのだ。
倒壊した屋敷を見つめる私達の耳に、柔らかな音色が届く。
「―――我が愛は終わりぬ。夜の調べとともに」
哀しい恋を歌う、銀の小鳥。音匣に閉じ込められた少女の想いが、月に反射して消えてゆく。
最早、螺子を巻く人もいない瓦礫のなかで、音匣は静かに鳴り続けた。

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