それでも、きっと。
野球に 負けた。
よりにもよって 野球に負けた。
いや 別に試合に負けたとか そういうんじゃなくて。
好きな男を 野球にとられた。
中二の時に、同じクラスになったけれど、最初は特にカッコいいとか思ってなかった。
だって坊主だし。
放課後はすぐに部活に行っちゃうから、話す機会もほとんどなかったし。
私も、その頃は吹奏楽部の練習が忙しくて、彼のことなんて、全く意識してなかった。
あれは、中二の夏休み。
文化祭での発表を前にして、私たち吹奏楽部員は連日学校を訪れて練習に打ち込んでいた。
文化祭が終われば、すぐに秋のコンクールがある。
夏休み全部使っても、練習時間は足りないくらいだ。
特に私たち二年は、メインパートを任されてることもあって、ついつい演奏に熱が入ってしまい、その日も気付けば夜の七時。
夏とは言え、さすがに日の落ちる時間だ。
「すっかり遅くなっちゃったね」
「うん。先に一年帰しといて良かった」
「ていうか、男子まで一緒に帰っちゃうのはどうなのよ」
「あたしたちだって、女の子なのにねー」
口々に言いながら、校門へと向かう。
と、先頭を歩く友人が足を止めた。
「あ、花井ー!」
その声に、グラウンドから出てきた人影が振り向いた。
「何だお前ら、今帰りか?」
校舎から漏れる薄明かりの中で、野球部のユニフォーム姿の少年が言う。
「うん。吹奏楽部の練習。野球部は?」
「うちも試合近いからな。でもさすがにグラウンドの照明消されたから終了」
「あはは。お疲れー」
友人と話す花井を、何とはなしに眺める。
ユニフォーム姿を間近で見るのは初めてだ。結構背が高いんだなぁ。
友人と会話を交わしているうちに、他の野球部員が制服に着替えて戻ってくる。
「梓も早く着替えて来いよ」
言われた花井が、野球部員と吹奏楽部員を等分に見比べた。
「ええ…っと、沢渡は南町だったよな。西村、お前こいつと一緒に帰れ」
「えー。何で俺が」
「いいから。バス組は早瀬、第一小方面は伊藤と永井な」
てきぱきと、下校のグループを指示していく。
「誰か中央公園方面の奴いるか?」
「は、はいっ!」
突然訊かれて、慌てて片手を挙げて答えてしまう。
花井は私の方を見て、ちょっと照れたように笑った。
「悪い、じゃあ着替えるからちょっと待ってて。他の奴らは解散な」
それぞれが、挨拶を交わして去って行く。一人残された私は、ぼんやりと校門に凭れかかった。
何なんだこれは。
これから花井と一緒に帰るということなんだろうか。
すっかり暗くなった街路に目を遣る。
そりゃ、夜道を一人で帰ることに比べれば、誰かが送ってくれるというのは心強いけど。
ろくに話したこともないクラスメイトと一緒、というのも困るような気がするぞ。
困惑しながら待っていると、花井はすぐに戻ってきた。
急いで着替えて来たのだろう、シャツのボタンが一つずつずれている。
「花井、ボタン」
指差して言うと、彼は自らの胸元を見下ろし、暗がりでも判るほど赤くなった。
くるりと背を向けて、慌てて服を整える。
その姿が可愛らしくて、思わず頬が緩んでしまう。
おかげで緊張が解けたのか、帰り道は予想外に会話が弾んだ。
「ところでさ」
私のペースに合わせて歩いてくれる花井を見上げて言う。
「何でいきなり送ってくれたわけ?」
中学生なんて、他人の噂ばかり気にして過ごしていて、異性と一緒に歩くことを、避けてる連中ばっかりなのに。
すると花井は、心底不思議そうな顔を向けた。
「何でって……まぁ、お前も一応女だし」
「微妙に失礼な言い方な気もするけど」
「ていうかお前ら、あんまり遅くまで残ってんなよ。最近この辺も物騒なんだから」
吹奏楽部に男がいなかったら、野球部に声かけろよ、と真面目な口調で言う。
女は男が守るべきだ、とでも思ってるんだろうか。
何とも古臭い思想だな。うちの部活の男子とはえらい違いだ。
「また、送ってくれる?」
口にしてから我に返り、赤面する。うわ、何か誘ってるみたいな口調になった。
「夏休み中は大抵学校にいるから、いつでも呼べよ」
瞬間、やばいと思った。
だって、その時私は、こいつと毎日一緒に帰りたいと思ってしまったから。
結局、告白したのは秋も終わる頃だった。
コンクールまでは恋愛どころではない、と自制しながら必死で部活に打ち込んだ。
その甲斐あってか、コンクールで満足いく成績を残すことができて、報告したところ、まるで自分のことのように喜んでくれたから、勢い余って告白してしまった。
花井が、驚いた様子で私の顔を見返す。
夏以降、何度も一緒に帰って、二学期が始まってからは、クラスでも話す頻度が格段に上がったというのに、全く予測してなかったのだろうか、この男は。
鈍いにも程がある、と思っていたら、花井は耳まで赤くして、
「別に、いいけど……っ」
と乱暴に言った。
花井は気が利くわりに、恋愛に関しては壊滅的に鈍いものだから、付き合い始めてからも、はっきり言って進展はなかった。
部活で遅くなった日に待ち合わせて一緒に帰ったり、お互いの練習のない週末に、映画を観たり買い物に行ったり。
中学生らしい、微笑ましい交際だと、我ながら思った。
他に誰もいない時に、並んで歩く花井に手を伸ばすと、照れながらも握り返してくれる。
それだけで満足だった。
誘われて野球部の試合を観に行った時は、素直にかっこいいと思った。
他の部員より頭一つ高い身長から、力強い長打が生み出される。
四番なんだよ、凄いんだよ、と口々に言う女友達の言葉が初めて実感できた。
自慢の彼氏だ、そう思う反面、何だかどこか寂しい気分になった。
ボールを見つめる花井の目に、私と一緒にいる時とは違う光が宿っていたから。
あぁ、この人は野球が好きなんだ。
私よりもずっと、「野球」のことが好きなんだな。
別々の高校に進んでからも、週末には時々二人で出かけた。
けれど、ゴールデンウィークを境に、花井からの連絡は途絶えがちになっていった。
中間試験を過ぎると、彼からのメールも電話も、全くなくなった。
「よし、行こう」
教室の窓から、仲良く下校する少年少女を眺めて一大決心する。
花井に、会いに行こう。
会って何を言われるとしても。今の状態よりも、直接別れを告げられた方がいい。
バスを乗り継いで、西浦へと向かう。
初めて訪れる、知らない高校。放課後の校門をくぐる、私服と制服の生徒達。
自分のセーラー服が、やけに目立つ気がして、胸元のリボンをつまむ。
野球部が練習しているグラウンドは、すぐに見つかった。
フェンス越しにグラウンドを眺めて、球拾いする一年生の姿を探す。
……いないんですけど。
暇そうな二軍だの補欠だのに声をかけて、花井を呼んでもらうつもりだったんだけど、グラウンドの人数はもの凄く少なくて、どう数えても十人そこそこしかいないように見える。
他にも練習場所があるんだろうか。
どうしよう。悩んでいるうちにマウンドから降りた人影が、フェンス近くを通りかかった。
「あのっ!」
声をかけると、相手は驚いたように身を竦めた。
「な な なに?」
「一年の花井って人を呼んで欲しいんですけど」
「あ う、うん」
焦ったように口ごもって、目を合わせないまま駆け出す。
私、脅すような言い方はしてないつもりなんだけどな……。
何であんなに怯えられなくちゃいけないんだろう。決意のあまり、厳しい表情になってたんだろうか。
ちょっと反省して、軽く深呼吸。久しぶりに会うのに、恐い顔してたんじゃ、あんまりだもんね。
ほどなくして現れた、グラウンドを突っ切って走ってくる長身の影。
頬が染まっているのは、全力疾走のせいなのか、他の部員の視線を一身に集めてしまったからなのか。
「お前っ、何でこんなトコ……っ」
息も絶え絶えに言うものだから、可愛らしくて笑ってしまう。
何だってこの男は、こんなにも妙なところで隙だらけなんだろう。
問い詰めようと思って来たのに、すっかり気勢を削がれてしまった。
「あのさ、花井」
呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、口を開く。
「最近、全然連絡なかったじゃない?」
「ごめん、すっかり忘れてた!」
勢いよく頭を下げられて、言葉を失う。
彼女のことを忘れてたなんて、普通言うか?
「本当にごめん! 部活が忙しくて、他のこと全部忘れてた」
ちょっと待ってよ。
私は、野球に夢中になって存在を忘れちゃう程度の女だってこと?
「……花井」
声がオクターブ低くなる。
花井のことは好きだけど。好きだけどね。
その鈍さは、既に犯罪だと思うわ。
いくらなんでも、付き合ってる相手に、「忘れてた」はないんじゃないの?
俯く花井の姿に、いまいち怒りに徹しきれない自分を感じながらも。
「ねぇ、花井」
ダメだ。腹が立つけど、嫌いにはなれない。
あなたのことは、本当に本当に好きだけど。
「別れた方がいいよね」
こんな状況で、私だけが連絡を待って毎日を過ごしているくらいなら。
花井が顔を上げて口を開きかけたけれど、すぐに唇を噛んで視線を逸らした。
その仕種に、私の中の何かが切れた。
「しっかりしなよ。男でしょ!」
腹の底から、力いっぱい怒鳴りつける。
びっくりした表情の花井に、畳み掛けるように言葉を放つ。
「花井は、私より野球が好きなんでしょ! ならもっと堂々として、好きなことは好きって言いなよ!」
気合入れて、仁王立ちして。
私は泣かないよ。花井のことが好きだから。花井の良いところ、たくさん知ってるから。
野球やってる花井が、本気でかっこいいこと知ってるから。
「私より野球を選ぶなら、三年間真剣にやりなよね」
その間に、私は今よりもっといい女になってやるわよ。
もっともっといい女になって、今度は花井から告白してくるくらいになってやる。
「……ごめん!!」
花井が帽子をとって頭を下げる。
「オレやっぱり野球がすきなんだ。今は野球のことだけ考えてたいから……っ」
どこまでも素直なやつ。私は苦笑して花井の頭を軽くはたいた。
「本当は、グーで殴ってやろうかと思ったんだけどさ。ま、頑張りなよ」
頑張って、いつまでも私の好きな花井でいてね。
「うちの高校、結構野球強いんだよ。地区大会でぶつかったら、ボコボコにしてやるから」
その言葉に、花井がようやく笑顔を見せる。
「バカ、うちだって負けねえよ」
「なんたって野球部の応援には吹奏楽部がついてるんだから」
変なの。振られたばっかりなのに、何で私こんなに笑っていられるんだろう。
花井と別れたら、絶対大泣きするだろうと思ってたのに。
「うん。頑張ってね」
強がりなのかなぁ。あとで一人になったら泣いちゃったりするのかな。
友達に電話かけまくって、愚痴三昧になるのかな。
そんな自分を想像したら、何だかおかしくて余計に笑ってしまった。
ひとしきり笑った後、右手を差し出す。
「今までありがと。私、花井のことが本当に好きだよ」
わざと好きだって言ってやったら、予想通りに真っ赤になって、それでも私の手を握り返してくれた。
「ホラ、早く練習戻りなよ」
頷いて、走って行く花井の後ろ姿を眺めていても、やっぱり涙は出なかった。
もうあの笑顔で、照れたような仕種で、私のところに戻ってくることはないのだと知っても。
さて、と。
花井の姿を見送った後、フェンス際の植え込みに向き直る。
どうやら、感動の別れに浸っている暇はないみたい。
「出てきなさい。そこに隠れてる奴」
怒りを帯びた声で言うと、しばらく間を置いてから植え込みが揺れた。
現れたのは、先刻の気の弱そうな男子生徒と、ひどく小柄な少年。
「盗み聞きなんて、悪趣味なんじゃないの?」
「だってオレ、気になったんだもん!」
開き直ったように、小柄な少年が言う。背の高い方は、慌てたように私と低い方を見比べた。
「あんたさ、花井のカノジョなんだろ」
言われて、胸の奥がちくりと痛む。
「元カノジョ、だよ」
えぇ。たった今別れましたとも!
半ば自棄になって言い放つと、少年は帽子を手にして目を伏せた。
けれどすぐに、顔を上げて真っ直ぐに私を見返す。
「あのさ、花井は野球が好きで、毎日すげー頑張ってるって思う。オレ、バカだけど、それくらいわかるよ」
だから、と真剣な表情で。
「だから花井を、オレらにください!」
「あ く、くださいっ」
深々と頭を下げる少年を見て、背の高い方も慌てて右にならう。
その姿があまりに可愛くて、やっぱり私は、笑いを堪えきれない。
全くもう。
全く、何なのよあんたたちは。
西浦の野球部ってのは、相当の野球バカの集まりみたいね。
「いいよ。あげる」
最初から、私のものじゃないけど。
花井はずっと、「野球」のものだったんだけど。
悔しいから、それは内緒にしておこう。
「ところでさ」
声を潜めて尋ねる。
「花井、こっちではどうなの? レギュラー入れそう?」
中学では、四番だったんだけどな。高校はさすがに、もっと上手い人がたくさんいたりするのかな。
すると彼は、大きな瞳をさらに見開いて、きょとんとした表情になった。
「花井、レギュラーだよ。うちのキャプテンだし」
「はぁ!?」
主将!? それってどういうことなんだろう。花井はまだ一年なのに。
「だから、うちはもともと一年しかいないんだって。で、こっちがうちのエースで、オレが四番!」
言いながら、隣の少年の背中をばしばしと叩くものだから、相手は栗色の髪を揺らして激しくむせる。
一年しかいないって、どういうことよ。その上、こいつが四番ですって?
下手すると、私より小さいこいつが?
エースは、この弱気な男? 冗談でしょ。
「野球部、なんだよね?」
同好会とかじゃないよね。
かなり不安になりながら、確認する。
「ちゃんと野球部だよ! オレら、甲子園だって行くんだから」
困惑してエースだという少年に目を遣ると、彼は無言で何度も頷いてみせた。
本気なのか……。
何て言うか、苦労するな、花井も。
でも、そんな荒唐無稽な夢も、彼らとだったら見られるってことか。
敵わないなぁ、本当に。
「じゃあさ」
いつの間にか、この能天気な少年に感化されている我が身を自覚しながらも。
「絶対、行ってよね。甲子園」
「おう!」
その言葉に、彼が満面の笑みで答えた。
うわ。
眩暈がするほど真っ直ぐな笑顔だ。
「あのさ、あんたそれさぁ」
名前も知らない、初対面の相手をあんた呼ばわりして。私も相当失礼だな、と思うけれど。
「その顔、花井にいっぱい見せてやってよ」
反則みたいなその笑顔を。
いっぱい勝って、いっぱい野球を楽しんで。
花井がいつまでも、私の好きな花井でいてくれるように。
頑張れ、愛すべき野球バカたち。
頑張れ、夢見る少年たち。
決戦の夏は、もうすぐそこだ。

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