展開された匣の定義

 ―――君はあくまで研究家であって、「黒魔術師」にはなれなかったと言うことさ。
「馬鹿馬鹿しい」
 『黒い部屋』のソファに沈み込んで、布瀬は呟いた。
 なんだって皆、下らない小説に縛りつけられて、自ら現実を見失うような真似をしているのだ。
 曳間が死んだのは、誰かが奴を殺したからだ。そしてその誰かは、吾輩ではない。昼間の甲斐の―――推理と呼ぶのもおこがましい、稚拙な考えを苦々しく思い出しながら、布瀬は部屋の天井を眺めた。
 御丁寧にも天井まで黒く塗られたこの部屋。彼は常々、この部屋の中で最も黒いのは天井だと思っていた。理由は単純、天井が最も明かりに近いからだ。
 闇と光は、常に隣りあっていなければならない。
 人工の光に心地よく抱かれながら、布瀬はゆるゆると身体を起こした。全てが、誰かの策略の元に動かされている。
「お前なのか、曳間」
 自らの呟きに驚いて、慌てて首を振る。
 ナイルズの小説に知らず影響を受けていたらしい。
 吾輩らしくもない、と自嘲的に考えながら、絨毯に足を下ろす。心の何処かに、たまには虚構に操られるのもいい、と半ば自棄的になっている自分自身を見出して、急速に心が冷えるのを感じた。

 <   九重の空の広がりは虚無だ!
     地の上の形もすべて虚無だ!
     たのしもうよ、生滅の宿にいる身だ、
     あぁ、一瞬のこの命とて虚無だ!  >

 ルバイヤートだったろうか。口の中で暗唱しながら、書庫の扉に手を掛ける。

 <  ないものにも掌の中の風があり、
    あるものには崩壊と不足しかない。
    ないかと思えば、すべてのものがあり、
    あるかと思えば、すべてのものがない。  >

 ―――誰が風を見たでしょう、か。
 書庫の扉に内側から鍵を掛けたのは、疑いようもなくナイルズの与太話を思い出したからだろう。
 全くどうかしている。金色の巻き貝のような鍵を見ながらそう思う。
 レコードはモーツァルトのレクイエム。愛撫するかのようにゆっくりと針を落とす。
 その時――――――。
『実に、お誂えむきの曲じゃないか』
 驚いて声を上げなかったのは何故だろう。その声は、ここに存在する筈のない奴のものだったのに。
「レクイエムが、かね?」
 わざと緩慢な動作で振り返った先に奴の姿があった。
 曳間了―――ピグマリオン。ふざけた名だ。お前は人形のために死を選んだとでも言うつもりか。
「それならこの曲を君に捧げよう。迷っていないで早く成仏したまえ」
 曳間が薄く笑った。華やかなくせに闇を感じさせる笑み。
『この曲は、まさに僕らに相応しい。そう思わないかい―――サリエリ?』
 オ前ノ 笑顔ナド 大嫌イダ。
「ほう。すると自分はアマデウスだとでも言うつもりかね?」
 こいつは過去の亡霊だ。さもなければ吾輩の幻覚。何故今更こんな所へ現れたのか。
 布瀬はぼんやりと、『黒い部屋』にパイプを忘れてきてしまったことを後悔した。
『僕に、なりたかったんだろう?』
 毒のある花のような微笑。花粉が肌にまとわりついて離れない。
「残念ながら、吾輩は今のところ、自分に不満はないのでね。既に死んでしまった人間を羨むほど、酔狂でもない」
『サロメがヨカナーンを殺したのは、愛が報われないことを悟ったからだ』
「面白い比喩だ。ならば君はサロメではなく、直接手を下したヘロデ王の元に行くべきだよ」
 意味も無い言葉の羅列。何故吾輩は、いる筈のない人間と、こんな無意味な会話を交わしているのだろう。
『死して後も、ヨカナーンはサロメのものにはならなかった』
 唇を奪われても、その高潔な魂は永遠に神のものだ。ワイルドのサロメは、確か最後には、その狂気を恐れたヘロデ王に、彼女も殺されてしまうのではなかっただろうか。
 サリエリとアマデウス、サロメとヨカナーン。一体何のメタファーなのか。そのうちにカインとアベルまで出て来かねない。限りない嫉妬の系図。それは批評家でしかありえない探偵が、芸術をものした犯罪者に対して抱く焦燥にも似ている。
「サロメの比喩には無理があるね。吾輩は君を愛してなどいない」
 吾輩の目の前で、その秀麗な顔に笑みを貼り付けたこいつは誰なのだろう。レクイエムの旋律に身を委ねながら、初めて布瀬は自分が立ったままなのに気付いた。座ることなど思いもよらない。今、腰を下ろしたら、もう二度と立ち上がることはできないかも知れない。両の足に、僅かに力を加える。
 対して曳間は、生命を持たぬ者特有の軽やかな動きで部屋を横切り、ベッドの縁に腰掛けた。
 無感動に、布瀬の視線がそれを追う。
「―――何故」
 続く言葉など、最初から存在しない。
 本人さえも気付かない無意識の奥では、おそらく多くの言葉がめまぐるしくその配置を変えているのだろうが、彼の意識の表層には、何の思考も浮かび上がっては来なかった。
『成程。愛していないから、布瀬は僕を殺せなかったんだ』
「そんなことを言うために来たのか?」
 押し殺したような声で言いながら、布瀬はまだ見ぬ殺人者を呪った。何でこんな奴を、肉体という殻から解き放ったのだ。理不尽な怒りを抱きながら、曳間の笑みを睨む。
 生命と反目しあう美というものは存在する。
 闇の領域に属する学問に心魅かれた者なら、誰でも知っていることだ。そしてそれ故に、今の曳間は、絶対の美を誇っていた。布瀬は、自ら死を願ったことなどない。生命の終焉が、甘美なものではありえないことを、彼は確信していた。けれど、目の前の曳間の姿は、彼の主張を覆す程、強大な要素を持っている。
 知らず唇を噛みながら、布瀬は意識を、深淵の渕へ滑らせた。
「それで吾輩に、勝ったつもりかね?」
『勝つ?』
 曳間の笑みに、亀裂が生じた。それさえも、嘔吐を催す程美しい。眩暈を感じながらも布瀬は、吐き捨てるように言葉の糸を繰り出した。
「冗談じゃない。死なんて所詮、最も判りやすい敗北にすぎないではないか」
『能動的な敗北は、主観的な勝利だ』
 どこか感情の籠もらない声で、曳間が答える。
 途端、何かが砕ける音が、聞こえた。この感情は怒りなのか、それとも奴が言ったように、嫉妬なのかも知れない。真紅の奔流が布瀬を強引に押し流そうとする。―――何もかもが虚構だ。
 こんな匣の中に閉じ込められて、我々は何の夢を見ていたんだ?
 彼は窓へと歩み寄り、クレセント錠に手を掛けた。長い間鎖されていた硝子達は、動くことを拒み、鍵はなかなか外れない。業を煮やした布瀬は、書棚に手を伸ばし、重厚な百科事典の一冊を抱え上げた。
 頭上に掲げ、勢いよく振り下ろす。小気味良い音をたてて、一枚の硝子が闇に散乱した。
『布瀬?』
 初めて、その表情に微量の不審を纏わせて曳間が口を開いた。
 ―――もう遅い。
「ならば、最後にチェック・メイトをかけるのは、この吾輩だ」
 窓枠に残った破片を薙ぎ払いながら、布瀬が呟く。
 オ前ニダケハ 負ケナイ。
 この世界が虚構なら、それでもいい。吾輩自身の手で、全てに終止符を打つまでだ。虚空に身を乗り出した瞬間、曳間を取り巻く空気が決定的に崩れた。
 吾輩の勝ちだ。
 曳間の表情は、優越ではない。ましてや憐憫では有り得ない。あれは―――。
 布瀬は最後の気力を振り搾って、頬に勝利の笑みを張りつかせた。差しのべられた曳間の腕に一瞥をくれて、跳躍する。
 夜の奥の、更に深い闇の底へ、彼はゆっくりと堕ちて行った。